クローネンバーグ試論へ向けてのメモ

クローネンバーグは、この世界のエラーを本来性として認識する。
かれの映画の主人公たちにとっては、この世のエラーこそがこの世の道理を露呈させる機縁なのである。
というよりも、そのエラーが真理であるかどうかは主人公たちが主体的に(勝手に)判断する。
そして、そのエラーこそが真理であると倒錯(判断)する。
むしろ、そのエラーはかつてあったし、今もなおあり、これからも永続するものであると知る。
つまりエラーこそがこの世であったのであり、またこの世なのであり、これからも世を統べるものであると知るのだ。
そのエラーに身を投げて、エラーそのものとなることによって、人ははじめてこの世界を領受することが可能となるのである。

今年に入ってから

観た映画は以下。

ビフォアミッドナイト
母なる復讐
ウルフオブウォールストリート
オンリーゴッド
ホビット 竜に奪われた王国

三番目、四番目は好きだった。
おれの好きなスコセッシが帰って来た、あのグッドフェラズ、カジノの。そりゃあ楽しいわな。GFの死体を裸に変えれば、WOWSの出来上がり。つまり暴力をエロに変えたってわけね。で、こっからおれの妄想なんだけど、スコセッシが、『パブロを殺せ』を撮れば、もう畢生の大傑作じゃないかと。というか、カルテル絡みの話なら、性と暴力の話が彼の細かく、複眼的な語り口で最大限活かせるのではないかと。

で、オンリーゴッドは、また結構好きな部類だった。好みで言うなら、おれはドライブより好きね。身も蓋もない話で、POPだし。

それでは。

スーパーマン映画について、少し

 ザック・スナイダーの『マン・オブ・スティール』を観て来てから、もう2、3週間経つだろうか、分からないが、もうこの手のリアリティラインの設定って難しいよな!って話&愚癡も、いい加減にしないとな、と思っているんで、さくさく話していこうと思う。
 ザックの手腕は確かだ。彼はノーランのアホなリアルには乗らなかったし、ノーランがやりたくてもできないことを成し遂げたのである。それは、カッコイイことを優先させた、リアルってことである。ノーランは詰まる所、機材のカッコよさ以外は演出できなかった。カメラの質感がいいよね、芝居いいよね、であって、ノーランの演出いいよね、は皆無なのである。だから、ザックのカメラの質感いいよね、芝居いいよね、しかもカッコいいよね、は、正にザックが出来たこと、かつノーランがやりたくてやりたくて、でも出来なかったことがスーパーマンで、ザックがやってくれたわけである。つまり、かっこよくて、しかもリアルってこと。でも正確に言うなら、馬鹿なこと、リアルなことなんかはどうでもよくて、つまるところ、カッコいいかどうかにザックの演出は終始している。だから、ノーランみたいな馬鹿なことを重々しくやるという最低の馬鹿っぽさに陥ることなく、いや、タイトなスーツ着るクリプトン人の話、で、ああ、そうそう、スーパーマンってんだけど、かっこよくないとさ、シャレになんないから、だって、ほら、全タイの変態さんだから、ってんで、ストップ&ゴーの観易く分かり易い、しかもキレッキレのアクション映画として成立したのが本作『マン・オブ・スティール』である。
 じゃあ、面白いかと言われると、まぁ、というのが私の本作に対する印象である。いや、面白いんである。女士官もカッコイイし、適度にリアル、適度にマンガ、適度に馬鹿で面白いんだが、それって、つまり及第点以上ではない、ということの完全な証左とも成ってしまうという印象であって、私としては、それなら完璧にただの馬鹿であるところのノーラン版バットマンも、もしかして面白かったのかとか、そういう妄想に走ってしまうくらい、もしかするとある種の完成型だったとも言えるかも知れない。ま、バートン版バットマン二部作を超えるヒーロー映画はないけどね。
 今回にしろ、毎回、この手のアメコミ映画を観て思うのは、現実という、現実の映像というものが不可避的に、潜在的に必ず、もう絶対必ず持つ、実写ということ、それだけの劣点である。マンガの、あの絵であれば許されるリアリティが、現実に俳優を用いて、現実の風景を、或いは現実を元にした背景をグラフィックで合成して、撮影しても、結局はマンガの絵に、あの絵が有するリアリティの力強さに現実が追いつかないのである。何処まで行っても。
 もはやスーパーマンはスーパーマンでしかない。バットマンバットマンでしかない。しかも、それは実写でなく、マンガである。イラストである。つまり、ここで我々は表現内容は表現様式と適合している時、最も効力を発揮し得るという、ぼんくらの当たり前に回帰してきて、ま、そうだよな、とか馬鹿なことを思うしかないのである。
 その意味で巨大ロボは巨大ロボでしかなく、怪獣はカイジューでしかない『パシフィック・リム』は堂々としたもので、これはこれで私は大変おもしろかったのだが。かといって、いや、じゃあ、やりゃあいいんでしょ、やりゃあ、という、この姿勢にも満足できない自分がいて、それは巧く言葉に出来んしで、しかし、デルトロの新作が最高だったことは事実であって、もう、ほんと、リアリティラインの話なんて、一般化出来ない話は難しいし、馬鹿みたいで厭!

 ついでに言えば、今思いつく、私の好きなアメリカンコミック映画と言えば、だが、バートン版二部作、特に『バットマン リターンズ』、『Xメン ファーストジェネレーション』(X-MEN first classのことっす)、あとはフランク・ミラー大先生、ほんと、ダークナイトリターンズなくして今のアメコミ映画なんて無いよね!Sin Cityは良い映画だったね。あと、どうだろう、思いも依らないものが以外とアメコミだったりするので、分からないが、思いつくところはそんな感じだ。リターンズ、ファーストクラス、シンシティ。くらいか。後はスパイダーマン2!

The Lords of Salem 『ロード・オブ・セイラム』 観た

 ロブ・ゾンビの新作『The Lords of Salem』を観た。半端な英語力で観ているから、ちょっと誤解しているかもしれないけど、今現在において分かった範囲で、話してみたい。
 たぶん賛否両論が分かれる映画だと思う。ストーリー自体は難解でも何でもなく、ある意味で予告編通り。つまり、サタン来てぇーって話なんだけど、後半になると高橋ヨシキも指摘していたようなトリップ映像、というかライヴ映像?というか演劇?のようになっていって、『ロッキーホラーショー』というか、何と言うかミュージカル?みたくなるので、そこらへんでアレレっていう人と、うわー、いい!!みたいになる人とくっきり分かれそう、その意味で賛否両論だと思う。ここら辺の賛否は『ハロウィン2』の幻覚シーンで、ぐぐっと来なかった人も安心できるくらいにクオリティーが上がっているので、ああいうのだったら厭だなぁと思っている人はひとまず安心して下さい。
 繰り返しになるけど、ストーリー自体はほんと、シンプルというか宣伝で言っている通り。そのまま。それ以上でも以下でもない。ラジオDJが悪魔の音楽を番組でかけちゃって、町も自分もどんどんおかしくなっていく、というもの。途中で「これはまずいんじゃないか?」とか気づく人がいたり、クライマックスまでに「これって悪魔の・・・」とか、そういう感じで盛り上げていく。だから宣伝でばらしている粗筋が実は結構、ハナシの終盤まで映画の中では伏せられているモノだったりするんだけど、ま、お約束だよね、そんなの。
 しかし、町がおかしくなる、とか悪魔が出て来て『エンドオブデイズ』みたくなっちゃうとか、そういう事はかなり控え目というか、映像では見せない。主人公が体験する幻覚?というか舞台?でおぼろげに語られるだけだから、そういうPV?が出てくるだけで町が爆発するとか家が燃えるとか人々が発狂して『サスペリアテルザ』みたく赤ちゃんを橋からぼーんするとか、そこらの車を壊すとか、そこらで殴り合うみたいなことは一切、描かれません!
 どこまでも、あくまで主人公視点、うーん、主人公視点というか主人公周囲の話だけを見せて、後は『シーバース』方式。つまりラスト、エンドクレジットでラジオ音声で話に広がりを持たせるっていうアレね。だから舞台になるのはラジオ局と家、自宅という限定されたものだし、登場人物も同じアパートにいる婆さんらとラジオ局の人、あと数人という、かなりクローズドなもの。モブでラジオ聴いている人っていうのも少し。
 まず、悪魔の音楽がなかなか雰囲気があっていい。個人的には『セルビアンフィルム』の音楽は、かなり悪魔っぽかったけど、あれよりももう少しレトロな感じで、クライマックスでは鉄弓みたいなのでバイオリン弾いたりして演奏するんだけど、あれはなかなかおどろおどろしい素晴らしい曲だと思った。日常の場面でも重低音が鳴っていたりして、不気味演出は完璧だし、相変わらず一昔前、と言っても60年代、70年代がもはや50年前になんなんとする時代だから二昔前くらいか、あの時代の音楽もかかるし、ああいう音楽が好きな、というか今までのロブ・ゾンビ映画でかかってたサントラが好きな人は今回も楽しめると思う。『グラインドハウス』の音楽とか好きな人はね。モーツァルトのレクイエムかな、悪魔に教えてもらったとかいうクラシックもかかってゴス度は全開ですね。モーツァルトのレクイエムとか「怒りの日」は一体、というかバッハのカノンとか、何本の映画で使われているのか、それだけで研究書が出来そうである。誰かまとめて書いてくれないかなー。
 小道具だったり美術でも色々面白いとこがあって、『セヴン』でも出て来た現代美術か何かの紅い蛍光灯十字架とか出てくるね。あと『月世界旅行』のスチールが壁にばばーんと張ってあったり。こういう小道具とか美術が凝っているっていうのは今までもザッパとかアリス・クーパーのポスターとか、彼の映画はそういうところがマメというか楽しい。
 俳優も相変わらず好事家の喜ぶラインナップであると同時に、みんな役にはまっていて単なる好事家のラインナップに終わらずに適材適所なところが良い。スペシャルサンクスにはクリント・ハワードやウド・キアーの名前もあって少しびっくりした。びっくりしたと言えば、プロデューサー(もちろんロブ・ゾンビ自身も金出している)の一人にオーレン・ペリの名前があったこと。彼の映画はともかく、こういう人もこの映画にお金出しているのかとびっくりしたな。
 主人公の見る幻覚描写は少し日本のホラー演出っぽいところもある、ような気もするけど、個人的にはデイヴィッド・リンチっぽいと思った。部屋が並んでて、紅いドアがあって、なんて『インランドエンパイア』みたいだし、公園で犬散歩させてたら、「・・・」っていう本当に素晴らしいコワーイ場面なんて、いや本当この場面はこわいよ、向こうから変な人が歩いてくるだけなんだけど、この恐さは個人的には『ローラ・パーマー最後の七日間』の、いきなり子供が出て来てぴょんぴょん跳ねる場面なみの恐ろしさだった。何が恐いのそれ、と思う方もおられるだろうが、よく分からないものって不気味で恐いのである。そしてこの映画はそういう意味でははっきり言ってよく分からない。特にクライマックスで幻覚なのか何なのか、舞台なのか何なのかみたいなのが現実よりも優先的に描かれるようになってから、メインになってからは悪魔学に乏しい私にははっきり言って、種から芽が出たくらいにしか意味を取ることが出来なかった。これが何の種でどの季節に植えるとよくて、どんな華が咲くとかそういうことは一切分からなかった。これ喩えですからね、実際、植物の話が出てくるわけじゃないですからね。
 リンチつながりで言えば、舞台ですごいことが起きるっていうか、舞台を異次元として描くって意味でも『マルホランドドライブ』と通じるとこを感じたりもした。リンチの映画ってよく劇場が出るよね、ここ最近の二作は。
 意味が分からない代わりと言っては何だが、この映画の不気味さ、異常さ、異様さはここ数年のアメリカンホラーの中でもトップと言っていいと思う。異常な映画が観たいという私にとっては、まさにこういう映画に飢えていたわけで、本当に美味しくいただくことができた。意味や人間的なストーリーなんてものを捨て去って、非人間的で、暴力的な、何だかよく分からないけど恐いという、感情をゆさぶられるという意味で真に感動的な作品だと思う。異形の映画という意味で、昔の一風変わったよく分からないゴミ映画のようでもあるし、と同時に全く古くない、新しい今の時代のトラッシュムービーとして、懐古趣味の粗造品ではなく、ちゃんと成立している稀有な映画だと思う。
 神代辰己の『地獄』にも通じる、ある種のキッチュな特殊メイク、あとぶっ飛び具合もあって、悪魔映画というか、地獄映画のようでもあり、最近こういう、本当にいっちゃって帰ってこない映画は絶滅危惧種なので、出遇えてよかったし、大好物である。まだ、おれの好きなこういうのを作っている人がいるんだと思うとロブ・ゾンビにはたまにでもいいから、監督してほしいと願ってやまない。若松とか大島みたいな頭がおかしい監督がいなくなってしまった今となっては日本では高橋洋くらいしか頭おかしい映画を作る人はいないように思っているので、アメリカにロブ・ゾンビがいてくれると本当に助かるんだけど、こういうのやっちゃうと『インランドエンパイア』を撮ってしまったリンチみたいに、もう当分は映画なんか作れなくなってしまうのだろうか。リンチにも撮ってほしいのだけど・・・
 神代辰己の『地獄』は真の傑作だとおもうのだけど、まぁ、それはおいといて。でも、『ハロウィン2』なんて、『地獄』に通じる映画だったと思う。地獄に堕ちる運命を背負った女、殺人鬼の因縁を持つ女、ちょっとコジツケか。しかし、今作が描くのも、まさにそうした因果だ。サタンの花嫁となるために生まれて来た女の、悲劇というか何と言うか、それが描かれるわけだから。こうした因果思想は実際のところ、仏教でいう因果観念においては誤りではあるのだけど、「力の表現」としては優れていると思う。思想的には間違いであっても、表現としては優れている、というわけだ。
 今作『The Lords of Salem』は現時点でのロブ・ゾンビの集大成であり、また最高傑作だと思う。一作目『マーダーライドショー』のアヴァンギャルドなイメージをアップデートし、生々しさ、荒々しさはそのままに、それらをキャリア上において最も洗練されたカメラワークや美術で包み込んである。映画の技術的(カメラ、照明、美術)側面はきっちりしていて、やっぱりライヴやっている音楽家だから照明とかばっちりだし、それでいて狂っていて、劇薬と呼ぶのが相応しいような異作となっている。私個人としては、そう思ったし、ここ数年のアメリカンホラーの中で最も素晴らしい作品の一つであると断言したい。
 最後に、これが日本で公開されるかどうか、というどうでもいいことについて少し書きたい。
 おそらく映倫の審査ではR-18をくらうだろうと思う。『マニアック』でさえ、18指定を受けて、さらに指導を受ける必要があるというのだから、っていうかエロ以外のものにボカシを入れる、でなきゃ15指定にならないとか言っているのだから、今作はもう、これは当然18指定をくらうだろうことは確実である。指導というか、作品に対する毀損(モザイク等)がどれくらい入って18指定に納まるのか、それとももっと規制がかかるのか、はたまたエロだけでなくグロにもぼかしをいれて15指定で納まるのか、全く以て映倫の審査基準のデタラメさが分からないものだから、私に分かるはずがないのだが、男性器をみんな横並びでこすっている場面などあり、それは間違いなくぼかされるだろうし(修正って言い方は間違っていて、毀損だとおもう、まぁどうでもいいか)、ババアの裸がけっこう頻繁に出てくるので、あれら老女の股間にもモザイクが入るのだろうか、後半には全裸女性が束になって画面に向かって歩いてくる場面なんかもあるので、あれにいちいち網をかけてたら、下手をすると一昔前、VHSの頃の『ソドムの市』みたいに、もう訳が分からんことになるような気もしないではない。画面の下半分はもう全部モザイクなんて馬鹿なことになるんでないか、とか、まぁどうでもいいか、もうブルーレイで買えばいいんだから。海外から。
 どんな形で公開されるにせよ、尺が切られるってことがないといいのだけど。シネコンでは流石に買えないような映画のような気もするけど、今はシネコンも『マニアック』とか買っちゃうから、どうなるか分からない。さすがにここまでえぐいとミニシアターで、ってことなのかも知れないし。えぐい、っていうのは残酷描写って意味でなくてエロもあって、暗示的なグロがあるっていうか、倫理的にアウトだなーって事です。鍋で人を殴殺するくらいだから、別段ぐちゃぐちゃってわけでもないけど、生理的な嫌悪感は結構感じました。祭壇のぼった向こうに変なのがいて、その変なののヒモみたいなの握ってぶるぶるーとかああいうのは、ちょっと、気持ち悪いっていうか気味悪いし、そういう意味で直接的なグロよりよっぽどグロテスクに感じましたね。たまにレヴューとかで「思ったよりグロくない」とか言っている馬鹿がいますが、てめぇの感性のにぶさを呪ってくれ、と。・・・何か書こうとしたけど忘れちまったよ、話が横道にそれたせいでね。きっと邦題は複数形は無視して『ロードオブザリング』と同じで『ロード・オブ・セイラム』だろうね。っていうか配給つかないでソフトスルーだったりするかな、どうだろう、だったら残念だな。
 とにかく!『マーダーライドショー』二部作も『ハロウィン』二部作も、『ホステル』二部作も『ヒルズハブアイズ』リメイクも大好きだけど、変な気味悪い映画という意味では随一、大怪作と言っていいでしょうし、素晴らしい作品だと思います。大画面で観たいから、ぜひ劇場でやってほしいし、楽しみです。

追記
上映決まりましたね!上映劇場がホント少ないけど、、、予想と違って15指定でしたね。さて、どれくらいの修正が入るものか。

80年代のもう一つのすがた

http://d.hatena.ne.jp/UESU/20050807

ハナタラシヒストリー(話;東瀬戸悟)

                                      • -

東瀬戸 悟
1960年 兵庫県生まれ。大阪在住。フォーエヴァー・レコード代表。
プログレ、サイケ、ノイズ、現代音楽を中心に国内外のシーンに幅広く精通する。自身のレーベル、AUGEN/HOERENを主宰し、ニプリッツ鈴木昭男、宇都宮泰、山本精一、ジョン(犬)、灰野敬二、キャロライナー、エイプリル・マーチなどの作品/ライヴを企画制作。サームストン・ムーア、ジム・オルーク、クラウス・ディンガー、メイヨ・トンプソンなど海外アーティストとの交流も深い。
(註 この文章は、数年前、「2ちゃんねる」の「ハナタラシスレッド」にアップされていたものを転載しました。89年か90年ごろにフールズメイトか何かに載っていたもののようです)

 山塚愛の最初のバンドは俺の知る限りでは蛇骨婆(だこつばばあ)だ。世界最初のスピードコアバンドでノーテクで全曲を全速力で演奏してるだけだった。本当に糞だった。愛はギターだったが楽器のことを何も知らなかった。ただ騒ぎたかっただけだろう。ライブを直に見たことはないが、止められるまで延々と演奏し続けたらしい。愛はライブの最後にドラムに飛び込むようになったんだけど、それこそがハナタラシに繋がるステージ上の暴力と破壊の始まりだったんだ。
 愛は1984年にメイルアートをやっとって、ハナタラシでも2,3の宅録カセットを野原音工というレーベルから出してた。コンドームカセックスも当時の別レーベルだけど多分実態は同じ。野原音工という名前は、愛がばかでかい平原の真ん中にたって消えていくような感覚、そう、無の真ん中に立ち何もせず何も考えないという感覚が好きだったからそう名付けられた。
 ハナタラシは愛が子供の時蓄膿症だったことに由来する。鼻づまりと野原で立ちつくす感覚を組み合わせたかった。ハナタラシっていう言葉は本当にガキっぽくて汚くてくだらない。蛇骨婆は明白にハードコアだったが、ハナタラシはノイズユニットで、ライブの時にはパフォーマンスアートだった。 ステージでのハナタラシはもう一人竹谷がいた。彼は美術を教えている画家で、現代美術に精通していた。ハナタラシの最初のライブの頃、竹谷はまともな音のレゲエ・ダンスバンドでドラムとボーカルをしてた。その前にはダンステリアというバンドでB-52'sの京都公演の前座で出た。ハナタラシはノイズバンドだったけど、竹谷のドラムは軽快で親しみやすかった。
 我々がいまハナタラシのスタイルと考えるのは竹谷が愛の人格と前衛を組み合わすことができる能力と知識によるものだ。竹谷は自分たちの使うゴミから何からにロゴをペイントした。自分らの手袋にもしとった。パフォーマンスに全てを投げ出すことができるという愛の能力が残りを占める。
 真に最初のハナタラシのライブは大阪難波のえびす橋でラジカセとゴミを使ったやつや。日曜の午後の人がいっぱいいる時間にやって警官に何度も止められた。その頃からストリートパフォーマンスとして知られるようになりついにはフォーカスに写真が載った。1984年の終わりか85年の初めにライブハウスでやることになった。今日の伝説のほとんどはこの頃のものだ。最初の大阪でのライブはスタヂオアヒルであったやつで、まずtexas chainsaw massacreを上映し、その後でチェーンソウとか電動具とかオイル缶を使った。竹谷は日雇い労働をしてたので、建築現場からでかいゴミを拾って来れたのだ。そこにロゴを書いたらもうオブジェ。ライブは本当に死ぬほど危険だった。愛はいつでも完全に喜んで死ぬつもりみたいだった。別に演じてたんじゃなくて本当におかしかったんだろう。
 この頃の多分京都のライブだったと思うけど、死んだネコを切り刻んで色んなトコから非難を浴び取ったな。特に動物保護の奴らに、当たり前やけど。Mark Paulineも同じ様なことをやってたな。何でそんなことしたいのかわからんし好きでもないけど、そこまでせざるを得なかったことに興味がある。ともかく動物は殺さなかったけどみんないつかハナタラシのライブで死人が出ると思ってた。大阪キャンディーホールのライブで愛は自分の足を非道く傷つけたことがある。回転ノコギリを滅茶苦茶にぐるぐる振り回してたら太股に当たって。大量にガラスを投げつけたこともある。
 何でそんなことすんねん、とまた聞かれるかもしれんが怪我すると分かってんのにそうしてしまうのが面白い。なんでそんなん見にいっとんねん?今ではハナタラシはネコ殺しのバンドと思われているけど、個人的には抑圧された人間が暴走するのは好きやな。
 物を壊してて困るのはさほど大きい音がしなくて音を拾うのが難しいこと。ハナタラシが有名になってからは観客の方がうるさかった。だから音だけ聞いてもあんましおもんない。ライブが重要だったのは戦争の実体験だったからだ。そしてこれには物見高いところやマゾっぽいところもあったことを忘れんとこう。
 1985年、ハナタラシはとうとう東京でYBO²(イボイボ)とメルツバウと共演した。入場する前に自分の安全と責任を放棄する旨に署名させられた。みんなおもろい冗談やと思ったみたいやが、メルツバウとイボイボの後にハナタラシがステージに突撃してきたのを見て全然冗談じゃないことに気付いた。
 ハナタラシは観客の真ん中にゴミを積んだでかいハンドカートで乗り込み突っ込んだ。ぐるぐる回ってガラスやらパイプやら瓶やら板やらを観客めがけて投げ込んだ。
 このライブで地下メディアの注目を集め東京のメディアのおかげで全国区になり皆に知られるところとなった。
 ハナタラシはペニス原理にこだわってた。初期のスローガンはTake Back Penisで後にTake Back Your Penisに変わった。ペニスが普通の状態、つまり勃起してない時の様にハナタラシと愛自身は静かでシャイで穏やかで臆病でさえあり本当に不器用でちょっとかわいいくらいかもしれない。しかしひとたび勃起するや、力を得て固く逞しくなり、攻撃的にもなって、ついには爆発する。ハナタラシはペニスであった。だからTake Back Penisが彼らのスローガンであり、ファーストの全曲タイトルにcockが付いていたのだ。ファーストの表ジャケを見るとペニスのコラージュが見える。愛はもっとはっきりと見えるようにしていたが、アルケミーが印刷所とのトラブルを避けるために薄くしてしまった。
 アルバムの歌唱は大本教のもので愛の祖父が信者だった。大本教創始者は日本が負けると言う予言により太平洋戦争の頃非道い迫害を受けた。アルバムの歌唱は祝言(しゅうげん)の一種だ。信者じゃないけど。Hanatarashiは自主制作にしては売れた。東京では二回しか、しかも少人数の前でしか演奏していないけど全ての東京のその筋の奴らが熱狂した。ハナタラシは極めて有名となったが、2,3カ所を破壊し尽くした後には誰も演奏をさせてくれなかった。その評判故に大阪ですらライブが出来なくなった。それで停止を余儀なくされた。ともかく同じやり方はできなくなった。そして止めることで伝説に、夭折(ようせつ)の青春の栄光、美しき敗者となることができるのだ。愛は愚か者ではぜんぜんなくて、ちょうど止め時だと思ったのだ。愛は真の表現者ハナタラシは凍結されたが、ずっと強く期待されていた。
 Hanatarash2までに竹谷は脱退。代わりにOneとして知られる大宮イチを入れたが、彼はフォトセッションのみでライブも演奏も全くしていない。彼は当時プロレスラーになりたくて、愛は竹谷の代わりに怖そうな顔をした誰かを必要としていた。Hanatarash2は他の作品同様ほとんど愛のソロで、非常階段のJoJoが少しギターノイズを加えている。これは天才的な作品である。
 Psychic TVの前座の予定があった。愛と竹谷と山本と平(ヒラ)の4人のハナタラシで初期のボアダムズとほとんど同じメンバーだった。彼らはブラックサバスやディープパープルのカバーなどの本当の音楽を演奏するつもりだったらしいが主催者が愛がガソリン爆弾を持ち込んでいるのを発見して中止された。これが暴力沙汰の終わりだった。愛はバンドに入りたがってた。
 1988年愛はハナタラシ復活のライブを東京で行った。イチはこなかった。そこはステージと観衆の間に金網を張っていた。そこに物を投げたら跳ね返ってくるやろ?愛はまっすぐ飛んで帰ってきた瓶で鼻を折った。観衆は血を見て興奮した。多くの人が愛に、芸術のためにもっとやれ、傷つけ、死ねと叫んでた。大体15分くらいやった後に、「俺はまだ死ねへんぞ!」と叫んでステージを降りた。それが多分最後のライブ。初期の死と殺しに関する発言はともかく、重要な変化と相応しい終わり方だった。
 ハナタラシの名は依然有名で、愛は現金が必要になると100本のカセットを作ってそれを一日で売ることが出来る。こんなんがいっぱいあってだれも完全なディスコグラフィーなんかつくれん。 

終わり

ミラージュ

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20071030/1193694802
 

渋谷にアートスペース美蕾樹(ミラージュ)というユニークな画廊があった。オーナーは越生あき子さん、年齢不詳の女性だった。元不忍画廊出身、不忍画廊は羽黒洞から分かれているから、老舗の羽黒洞の孫画廊とも言える。羽黒洞にはジョン・レノンが買い物に行っている。不忍画廊は池田満寿夫を扱っている画廊だ。この美蕾樹が昨年夏に突然画廊を閉じてしまった。画廊のコンセプトは推測するに、エロス、SM、同性愛ではなかったか。とにかく過激な画廊だった。アラーキーがメジャーになる前にここで写真展をしている。個展の途中荒木番だという3人の刑事が来て、写真の展示の中止を命じられる。それで、壁から外した写真のパネルを後ろ向きに立てかけ、見たい人にひっくり返して見てもらったという。15年ほど前にマッケローニの写真展も開催した。これは女性器をアップで写したものらしい。小学生だった娘をつれて近くまで行ったのだったが、まさか娘をつれて行くわけにはいかなかった。

 実際に見たのはアラーキーの写真で、カタツムリを這わせていた。女性器の中にカタツムリの殻を入れ、そこからカタツムリが体だけ出していたり、勃起した男性器にカタツムリを這わせていた。さすがアラーキー、普通こんな発想は誰もしない。

 アラーキー番の刑事が付かなくなったのは、ベネチア・ビエンナーレに彼が招待されて以後だと画廊主が言っていた。

 刑事と言えば、セクシーロボットのイラストレータ空山基も刑事がマークしていたらしい。イラストレーター仲間が一番巧いとほめる空山は、個人的な趣味で女性器を描いたヌードのイラストを、ポストカードに印刷して関係者に配っていた。私もたくさんもらった。彼もやはりソニーのアイボをデザインしてから刑事のマークが外れたそうだ。空山はミッキーマウスのロボットを作りたがっている。ディズニーの許可はもらっていると言うが、ソニーが降りてしまったと残念がっていた。どこかの企業が企画しないものか。

内田樹のブログから。

彼らが「慰安婦制度に軍部は関与していない」とか「南京事件などというものは存在しなかった」ということをかまびすしく言い立てるのは、その主張が国際的に認知される見通しがあるからではない。
全く逆である。
日本以外のどこでも「そんな話」は誰も相手にしないということを証明するために語り続けているのである。
彼らが言いたいのは、「自分たちが語る歴史だけが真実だ」ということではなく、それよりもさらに次数が一つ上の命題、すなわち「あらゆる国の歴史家たちは『自分たちが語る歴史だけが真実だ』と主張する権利がある」ということである。
彼らは自分たちが語っている自国史のコンテンツについての同意を求めているのではなく、「誰もが自己都合に合わせて、好きなように自国史を書く権利をもつ」ことにについての同意を求めているのである。
あらゆる国家は歴史を自己都合に合わせて捏造する。
だから、およそこの世に、国際社会に共有できるような歴史認識などというものは存在し得ない。
「国民の歴史」は原理的にすべて嘘である。
だから、誰もが歴史については嘘を語る権利がある。
これが自虐史観論者たちが(たぶんそれと知らずに)主張していることである。
誰もが嘘をついている。だから私も嘘をつく権利がある。そして、公正にも万人に「嘘をつく権利」を認める。
彼らはそう考えているのである。
この論法は「慰安婦制度」について、どの国にも似たような制度があると言い募った大阪市長のそれと同じである。
誰もが自己利益のために行動している。私はそれを咎めない。だから、諸君も私を咎めるな。
この命題は一見すると「フェア」なものに見えるが、遂行的には「持続的・汎通的な正否の判定基準はこの世に存在しない」という道徳的シニスムに帰着する。
それは要するに「とりあえず今勝っているもの、今強者であるものが言うことがルールであり、私たちはそれに従うしかない」という事大主義である。
同じことが歴史記述においても起きようとしている。
誰もが嘘をついている。私もついているが、お前たちもついている。だから、誰もその嘘を咎める権利はない。
このシニスムが深く浸透すれば、いずれあらゆる「国民の歴史」を、自国の歴史でさえ、誰も信じない日がやってくる。
彼らがめざしているのは、そのことなのである。
「国民の歴史」とはどこの国のものも嘘で塗り固められたデマゴギーにすぎないという判断が常識になるとき、人はもう誰も歴史を学ぶことも、歴史から学ぶこともしなくなる。
そのとき国民国家は終わる。
国民国家は「国民の歴史=国民の物語」を滋養にしてしか生きられない制度だからである。
そして、それが滋養として有効であるためには、どのようなかたちであれ、「他者からの承認」が要る。
他者からの承認を持たない物語、「その『歴史=物語』を信じるものが自国民以外にひとりもいないような『歴史=物語』」を服用しているだけでは、国は生き延びることはできない。
だが、今起きているのは、まさにそういうことである。
ウェストファリアシステムが有効だった時代に、人々はそれぞれ自己都合に合わせて「勝手な歴史」を書きながらも、複数の矛盾する記述がいつか包括的な歴史記述のうちに統合されて、各国の自国史がその中の「限定的に妥当するローカルな真実」になることを夢見ていた。
だが、グローバル化の時代には、もう誰も「包括的な歴史記述」を夢見ることはない。
もうそんなものは必要がないからだ。
もう国民国家を存続させる必要がないからだ。