80年代のもう一つのすがた

http://d.hatena.ne.jp/UESU/20050807

ハナタラシヒストリー(話;東瀬戸悟)

                                      • -

東瀬戸 悟
1960年 兵庫県生まれ。大阪在住。フォーエヴァー・レコード代表。
プログレ、サイケ、ノイズ、現代音楽を中心に国内外のシーンに幅広く精通する。自身のレーベル、AUGEN/HOERENを主宰し、ニプリッツ鈴木昭男、宇都宮泰、山本精一、ジョン(犬)、灰野敬二、キャロライナー、エイプリル・マーチなどの作品/ライヴを企画制作。サームストン・ムーア、ジム・オルーク、クラウス・ディンガー、メイヨ・トンプソンなど海外アーティストとの交流も深い。
(註 この文章は、数年前、「2ちゃんねる」の「ハナタラシスレッド」にアップされていたものを転載しました。89年か90年ごろにフールズメイトか何かに載っていたもののようです)

 山塚愛の最初のバンドは俺の知る限りでは蛇骨婆(だこつばばあ)だ。世界最初のスピードコアバンドでノーテクで全曲を全速力で演奏してるだけだった。本当に糞だった。愛はギターだったが楽器のことを何も知らなかった。ただ騒ぎたかっただけだろう。ライブを直に見たことはないが、止められるまで延々と演奏し続けたらしい。愛はライブの最後にドラムに飛び込むようになったんだけど、それこそがハナタラシに繋がるステージ上の暴力と破壊の始まりだったんだ。
 愛は1984年にメイルアートをやっとって、ハナタラシでも2,3の宅録カセットを野原音工というレーベルから出してた。コンドームカセックスも当時の別レーベルだけど多分実態は同じ。野原音工という名前は、愛がばかでかい平原の真ん中にたって消えていくような感覚、そう、無の真ん中に立ち何もせず何も考えないという感覚が好きだったからそう名付けられた。
 ハナタラシは愛が子供の時蓄膿症だったことに由来する。鼻づまりと野原で立ちつくす感覚を組み合わせたかった。ハナタラシっていう言葉は本当にガキっぽくて汚くてくだらない。蛇骨婆は明白にハードコアだったが、ハナタラシはノイズユニットで、ライブの時にはパフォーマンスアートだった。 ステージでのハナタラシはもう一人竹谷がいた。彼は美術を教えている画家で、現代美術に精通していた。ハナタラシの最初のライブの頃、竹谷はまともな音のレゲエ・ダンスバンドでドラムとボーカルをしてた。その前にはダンステリアというバンドでB-52'sの京都公演の前座で出た。ハナタラシはノイズバンドだったけど、竹谷のドラムは軽快で親しみやすかった。
 我々がいまハナタラシのスタイルと考えるのは竹谷が愛の人格と前衛を組み合わすことができる能力と知識によるものだ。竹谷は自分たちの使うゴミから何からにロゴをペイントした。自分らの手袋にもしとった。パフォーマンスに全てを投げ出すことができるという愛の能力が残りを占める。
 真に最初のハナタラシのライブは大阪難波のえびす橋でラジカセとゴミを使ったやつや。日曜の午後の人がいっぱいいる時間にやって警官に何度も止められた。その頃からストリートパフォーマンスとして知られるようになりついにはフォーカスに写真が載った。1984年の終わりか85年の初めにライブハウスでやることになった。今日の伝説のほとんどはこの頃のものだ。最初の大阪でのライブはスタヂオアヒルであったやつで、まずtexas chainsaw massacreを上映し、その後でチェーンソウとか電動具とかオイル缶を使った。竹谷は日雇い労働をしてたので、建築現場からでかいゴミを拾って来れたのだ。そこにロゴを書いたらもうオブジェ。ライブは本当に死ぬほど危険だった。愛はいつでも完全に喜んで死ぬつもりみたいだった。別に演じてたんじゃなくて本当におかしかったんだろう。
 この頃の多分京都のライブだったと思うけど、死んだネコを切り刻んで色んなトコから非難を浴び取ったな。特に動物保護の奴らに、当たり前やけど。Mark Paulineも同じ様なことをやってたな。何でそんなことしたいのかわからんし好きでもないけど、そこまでせざるを得なかったことに興味がある。ともかく動物は殺さなかったけどみんないつかハナタラシのライブで死人が出ると思ってた。大阪キャンディーホールのライブで愛は自分の足を非道く傷つけたことがある。回転ノコギリを滅茶苦茶にぐるぐる振り回してたら太股に当たって。大量にガラスを投げつけたこともある。
 何でそんなことすんねん、とまた聞かれるかもしれんが怪我すると分かってんのにそうしてしまうのが面白い。なんでそんなん見にいっとんねん?今ではハナタラシはネコ殺しのバンドと思われているけど、個人的には抑圧された人間が暴走するのは好きやな。
 物を壊してて困るのはさほど大きい音がしなくて音を拾うのが難しいこと。ハナタラシが有名になってからは観客の方がうるさかった。だから音だけ聞いてもあんましおもんない。ライブが重要だったのは戦争の実体験だったからだ。そしてこれには物見高いところやマゾっぽいところもあったことを忘れんとこう。
 1985年、ハナタラシはとうとう東京でYBO²(イボイボ)とメルツバウと共演した。入場する前に自分の安全と責任を放棄する旨に署名させられた。みんなおもろい冗談やと思ったみたいやが、メルツバウとイボイボの後にハナタラシがステージに突撃してきたのを見て全然冗談じゃないことに気付いた。
 ハナタラシは観客の真ん中にゴミを積んだでかいハンドカートで乗り込み突っ込んだ。ぐるぐる回ってガラスやらパイプやら瓶やら板やらを観客めがけて投げ込んだ。
 このライブで地下メディアの注目を集め東京のメディアのおかげで全国区になり皆に知られるところとなった。
 ハナタラシはペニス原理にこだわってた。初期のスローガンはTake Back Penisで後にTake Back Your Penisに変わった。ペニスが普通の状態、つまり勃起してない時の様にハナタラシと愛自身は静かでシャイで穏やかで臆病でさえあり本当に不器用でちょっとかわいいくらいかもしれない。しかしひとたび勃起するや、力を得て固く逞しくなり、攻撃的にもなって、ついには爆発する。ハナタラシはペニスであった。だからTake Back Penisが彼らのスローガンであり、ファーストの全曲タイトルにcockが付いていたのだ。ファーストの表ジャケを見るとペニスのコラージュが見える。愛はもっとはっきりと見えるようにしていたが、アルケミーが印刷所とのトラブルを避けるために薄くしてしまった。
 アルバムの歌唱は大本教のもので愛の祖父が信者だった。大本教創始者は日本が負けると言う予言により太平洋戦争の頃非道い迫害を受けた。アルバムの歌唱は祝言(しゅうげん)の一種だ。信者じゃないけど。Hanatarashiは自主制作にしては売れた。東京では二回しか、しかも少人数の前でしか演奏していないけど全ての東京のその筋の奴らが熱狂した。ハナタラシは極めて有名となったが、2,3カ所を破壊し尽くした後には誰も演奏をさせてくれなかった。その評判故に大阪ですらライブが出来なくなった。それで停止を余儀なくされた。ともかく同じやり方はできなくなった。そして止めることで伝説に、夭折(ようせつ)の青春の栄光、美しき敗者となることができるのだ。愛は愚か者ではぜんぜんなくて、ちょうど止め時だと思ったのだ。愛は真の表現者ハナタラシは凍結されたが、ずっと強く期待されていた。
 Hanatarash2までに竹谷は脱退。代わりにOneとして知られる大宮イチを入れたが、彼はフォトセッションのみでライブも演奏も全くしていない。彼は当時プロレスラーになりたくて、愛は竹谷の代わりに怖そうな顔をした誰かを必要としていた。Hanatarash2は他の作品同様ほとんど愛のソロで、非常階段のJoJoが少しギターノイズを加えている。これは天才的な作品である。
 Psychic TVの前座の予定があった。愛と竹谷と山本と平(ヒラ)の4人のハナタラシで初期のボアダムズとほとんど同じメンバーだった。彼らはブラックサバスやディープパープルのカバーなどの本当の音楽を演奏するつもりだったらしいが主催者が愛がガソリン爆弾を持ち込んでいるのを発見して中止された。これが暴力沙汰の終わりだった。愛はバンドに入りたがってた。
 1988年愛はハナタラシ復活のライブを東京で行った。イチはこなかった。そこはステージと観衆の間に金網を張っていた。そこに物を投げたら跳ね返ってくるやろ?愛はまっすぐ飛んで帰ってきた瓶で鼻を折った。観衆は血を見て興奮した。多くの人が愛に、芸術のためにもっとやれ、傷つけ、死ねと叫んでた。大体15分くらいやった後に、「俺はまだ死ねへんぞ!」と叫んでステージを降りた。それが多分最後のライブ。初期の死と殺しに関する発言はともかく、重要な変化と相応しい終わり方だった。
 ハナタラシの名は依然有名で、愛は現金が必要になると100本のカセットを作ってそれを一日で売ることが出来る。こんなんがいっぱいあってだれも完全なディスコグラフィーなんかつくれん。 

終わり