『空気人形』批判

いや、全然そんなん観てる場合じゃあないんだけど、最近は全然関係ないものを読んだり観たりしてしまう。

そういうわけで観てしまった。
んで、これから観る、という気がある人は以下、ネタ割りますんで、是非読まないで下さい。

さて、日本映画日本映画っと。
是枝、私まずそんなに好きじゃないんですね。結構今までの観てるけど、ぴんと来ないんですよ。で、今回のではっきりしました。彼は映画好き(香具師)の上級者向け「岩井俊二」である、ということがです。では「岩井俊二」とは一体何でしょうか。
すなわちそれは「映画好きなんです〜」「何が好きなんですか?」「『リリイシュシュ』とか〜」といった意味であって、多少というか多分に私の偏見が混じっております。何が言いたいって、つまりは岩井が好きなのは構わない。
私だって『スワロウテイル』は好きです。
つまりはオシャレってことです。お洒落は好きです。異存はありません。私にしたってたまにはそんなん観たいです。けど、お洒落と陰湿な暴力っていうのが何故かセットになって付いてくることがこの世の中、すごく多いじゃないですか?
あれ、何でですか?
岩井のリリイシュシュにしたって、これにしたって、村上春樹にしたって、何でこうもお洒落なファッションと残虐描写がセットになっているのでしょうか。これはミヒャエル・ハネケだってそうです。
こういったものが好き、としたり顔でおっしゃる皆さんは一体、どういう心持ちなんでしょうか、といつも首を傾げております。変態です、と公に発言していることをちゃんと感じておられるのかどうかはともかく、大抵は彼らは変態ではなく、悲劇を酒の肴にしている、まず間違いなく「やさしい人」であって、私も同じですからそれは一向に構わない。
無害なただの「結構な趣味」でございます。

問題はこうした作品が公開されるとばかりに飛び付く、賢い人達だと思います。スダジオヴォイスとかカットとかの人らのことですけど、きっとこの作品だって是枝の現時点での最高傑作などと言われることでしょうが、果たして無害な人々でない、評論家の方々がこれを評価し、生活のたしにするのはいかがなものだろうか、と考えてみました。

1、今回も美術を担当した種田陽平はホントに素晴らしい。いつものことですが、ほんと素晴らしい美術監督です。木村威夫の次世代、美監として歴史に残ると思います。撮影も素晴らしい。

2、ペ・ドゥナはもちろん素晴らしい。俳優で立つ映画だとつくづく感じた。まわりを固める俳優も皆、申し分ない。

3、「ラヴシーン」と言っていいと思うが、例の場面はいい。フェチ映画としていい。絶対いい。

4、ナルシシズムとか孤立を感情移入のフックとして使うことは別にいい。が、やっぱり一人称映画過ぎるのではないか。何故、「こころをもった」人形は殺人を犯すことにすら無自覚なのか。あっさり殺されるARATAは本当は何がしたかったのか。もしくは捨て駒だったのか?自分がかわいいだけの人形が、最後はエヴァの最終話みたいに「祝福の妄想」にひたるっていうのはあまりにとんでもない。自己憐憫過ぎて、ちょっとついていけない。

いやもうホント気持ち悪いです。「こころをもってしまった」とか「わたしのかわりはいる」とかそういう世界系みたいなワードで脚本を汚してしまったがために、やっぱりこういう帰着点しか持たない映画になってしまった。
この手のナルシシズム映画の失敗っていうのはそれこそずっとあったことなのに、一体何でまたこういう映画をやるのだろう。
これじゃ『恋空』とか『余命一ヶ月何とか』みたいな自己憐憫映画と大差ないじゃないか、と思うわけです。もちろん差はありますよ。けど限りなく一緒。観客の差としては、こっちは褒めても恥ずかしくないってところでしょうか。でもそんな自尊心は近代的な個人でも何でもありません。

70年代に大島渚が意図的にメロドラマを破壊したのは、こういう自己憐憫映画に観客も作家も溺れて、みんながみんなさめざめ泣く、というのに大してアンチテーゼを唱えたかったからです。加害者の意識というのを映画に積極的に取り入れた結果として、『白昼の通り魔』や『愛のコリーダ』もあるのです。『愛のコリーダ』はあくまで殺人に大して、激しい自覚があります。だからこその凄絶美であり、悲壮感だと考えております。

しかし無自覚な殺人者ほど恐ろしいものはない。善意で人を殺すというのはよくある話ですので、そういう話になるかと思うとそうでもない。絶望的なコミュニケーションの不在というにはあまりに感覚的なコミュニケーションしか描かれて来なかった。ぬるい、ぬるすぎる。ジャンル映画でゴミみたいにぼんぼん人を殺すのは見せ物だからと切り捨てられるけど、この映画のぬるさで殺しをやるのはやっぱり頓挫してるとしか思いようが無い。
ビデオ屋の店長が犯したっていい。そういう人もいるだろうが、そういうことに大して体をはるようなうざい正義漢すら登場しないのは一体何なんだろう。コントラストがないのだ。みんながみんな悩みを抱えている「やさしい人」たちなので、根本的な衝突などは何も起こらない世界なのだ。
だったらお茶の間ファンタジー的な映画として完成させてほしかったと思う。こういう人間描写はトリアーなんかと同じくらいえげつないし、醜い。フェチ場面と前半のなごやかな空気は賞賛に値するとしても、後半のグロさはとても私の手に負えるシロモノではない。

大島が撃ったのはまさにこうした「やさしさ」だったろうと思う。嫌なものは嫌なものとしてちゃんと描写すればいいものを、何となくな空気感ですっかりコーティングしてしまうことの罪悪を考えれば、露悪的な園子温なり、やんちゃで騒がしく、かつ虚無的な三池崇史の方がなんぼも好ましい。
レイプだとかミソジニーだとかをこんな風に扱うのは、やっぱり舐めている。

で、そんな映画をパッケージと作家で観て、評価してりゃ飯が食えるという評論家諸氏は、マクルーハンの時代なんでいくら仕方ないにしても、そのぬるい雰囲気が日本映画をどんどん衰退させていってしまう、というくらいの自戒と気概を持って仕事に望んでほしい、と切に願うばかりだ。表象批評だけではこの映画を裁断できないはずである。