『イングロリアス・バスターズ』の煩悶

「騒々しいね」
眼鏡をはずしながら、となりの老人が声をかけてきた。ここは都内の喫茶店で、私は珈琲を飲みながら、眠い目をこすっていたのだった。彼のテーブルの上にはスポーツ新聞と吸い殻が積まれた灰皿、私のテーブルも同じようなものだ。
灰皿、それと最近気になっている80年代のピンク映画の本。久々に読もうとして山田風太郎もかばんに入っている。
私たちは窓側に座っている。窓を開けているので、少し寒いが煙がもうもうとこもるよりはいい。残りの席をいろいろなバッジを付けた老人たちがほとんど独占している。彼らは何かの話し合いにこのドトールを使っているようだ。会計、記事とか書類とかそういう言葉が聞こえてくる。
「何かの話し合いみたいですね」
私はとなりの老人に言葉をかえす。話はこれで終わり。もしかしたら、互いにもう少し話したら面白いかも、という考えも起こったが、とくに持続しない。私は席を立つ。待ち合わせの場所に向かおうとして。老人は二本の指で両耳に栓をしているところだった。出ればいいのに。外の空気。
映画であれば、彼の言葉は私の胸の中に残った、というオチだろうけど、私のこころには何にも残らなかった。当たり前だけど。しかし一瞬の間ではあったけど、となりの席に座っているこの老人のことを妄想した。それは少なからず有意義だった。きっと、70くらいだろう。となると10代で大戦を経験している。徴兵はされていないと思うが、いや、もしかして。もしかするとこれが戦中派ってやつか、いやたぶんちがうな、でも60年代に青春を過ごしたクチでもなかろう、などと考えていた。傾注すること、そこに身を傾け注意を注ぐこと。となりの人間について考えるとことなど滅多にないものだ。
とは言っても私は別のことを考えていたのだった。つい最近観た映画のことだった。『イングロリアス・バスターズ』である。
割と面白かった。だらだらした映画だが、しまるところはすごくしまっていて、洒落ていて。
例によって例のごとく絶賛の嵐なんだろうと思う。シネフィルたちは映画のために自分のたましいすら売り飛ばしていて、もはや「いい消費者」でしかなくなっているので、「あのロングショットがどうの」「映画史がどうの」とまくしたてて悦に入っているだろうと思う。だけどさ、理論でやっちゃ駄目?つうかまずそこがなきゃお前ら何なんだよってことなのね。
何が言いたいかってつまりは私にはあのオチはよく分からなかった。面白かったど、楽しんでいいかすら分からなかった。ヒトラーアメリカ人が死ぬ映画を観ながらげらげら笑っていて、それをタランティーノはゴミのように下品な人間として撮っている、のかも知れないが、そこに写っているのはもっと大切なことで、それ自体が私たち自身の姿だということだ。元来ホラー好きの私なんて、殺人鬼に馬鹿が殺されるのを喜んで観ているわけで、あのヒトラーと自分を切り離して考えることなんか出来なかった。タランティーノの『デスプルーフ』だって、馬鹿なギャルがぐちゃぐちゃになるところで大笑いしていたものだ。その同じ姿をスクリーンで、しかもヒトラーとして目撃するとは予想だにしていなかったことだった。

その帰りの電車で「毛皮駄目」という看板をぶら下げている人を見た。
「生きたまま剥がされる。残酷な毛皮ファッションは止めよう」と書いてある。あぁ、これが噂に聞いていたアレか、と思った。なんでも渋谷とかで「毛皮着てますよね、これこれこういう風にこんなにかわいい動物を殺して作っているんですよ?そんなの着てお洒落っていうんですか?言うんですか?」みたいな活動をしているらしい。みんながみんなそんな風ではないだろうが、そういうアジをやる人もいるみたいだ。

正直な話、私はこの手の「問題意識」に戸惑いを覚える。地元にも捨てられたペットが保健所でぶち殺されないように飼い親を必死に探しまわって仲介する、という運動をやってる人とかいた。その人と話してても、同じようなどぎまぎしたものを感じた。「福岡では何千の犬猫が殺されているのよ!」地元は日本での上位クラス(数の話ね)の殺戮を行っているらしい。

犬猫の命を考える人はベジタリアンなのかと考えてみた。肉を食うというのは文字通り、牛馬をぶち殺しているということで、毛皮というならそこも駄目なのかなと妄想したためだ。無茶苦茶だと思われるかも知れないが、犬猫と同じく木花や野菜果物は生きたまま引き抜かれ、焼かれたり、潰されたり、漬けられたりしてぐしゃぐしゃと咀嚼されて死んでいく。でも、たぶん彼らは植物の叫びなど聞くことなく生きているだろう。というか、これは無茶な問いであって、彼らが本当に言いたいのはきっと「マグロ、クジラの乱獲ダメ絶対」みたいな事なんだと思う。

というのもその人が無印で売ってそうな繊維系の地味な格好をしていたからで、犬猫の生命にのめり込んでもっと本質的なことをすっかり忘れてしまっているのではと勝手に疑問に思ったから。私も無駄な皮はぎはよくないし、無駄な乱獲も、無駄な殺戮も大賛成とは言えないが、それをどうこうするのはここ千年では無理かなという気もする。無駄なものの過剰で世界は動いている。何かが急激に変化する、というファンタジーに一度毒されれば、その快楽と全能感によって、より人は愚かになる。自戒を込めて言えば、私が好んで観るホラー映画とか、映画そのもの、しいては物語とは何かが変わるかもしれないというファンタジーとその諦めで作られている気がする。

彼らがすべきことはペット工場で安く働かせている人のところへおもむき、彼らの賃金と再就職先を保証すること、つまりペットの絶対数を減らすことだったり、もしくは最近話題になったイルカ漁で成り立っている漁村の人々の生活を保障すること、更に言えば毛皮をあまりに過剰に生産している会社をリラックスさせ、その工員達の生活を、とかもうそういう超現実的なことでしか前進しえない運動だと思う。要は体のいい問題のすりかえなんだが、人が害なしに生きるという虚偽はこの際、捨てていただくしかないだろう。それにそんなタフなこと、出来やしないのだ。ましてや彼らには。もっともそれは当たり前で悪い事ではない。そんな暇はないが、主張することはタダなので、主張しているだけで、美しい自由というわけなんだが、主張することと他人の無知を糾弾することとは分けていければな、と妄想したりする。

確かに無知にいたたまれなくなる気持ちは分かる。同時に自分の無知を忘れないようにしたいが、しかしてめえが無知と思っている相手が実は結構、賢いのだという事は肝に銘じておきたいとも思う。みんな忘れているだけで、無知なのではない。運動家が自分の運動に夢中なように、各々にそれぞれの生活があるのだから。

「意識を変革すること」というのは恐ろしく長い道程を辿ることになろう。サミュエル・フラーが言っていたが、「どんな名君と言われるローマ皇帝でもコロシアムで人と人を殺し合わせてそれをよしとしたのだ。今では非人道的と言われる信じられない光景だが。」その闘技場では楽しみのために何人もの人が死んでいる。今ではそういった見せ物は禁止されている、というこの進歩に一体何年がかかっているかを考えてみれば、数百の生命を救うというのに恐ろしく時間がかかるのが分かる。

この映画ではヒトラーが死ぬ。ゲッペルスも死ぬ。ゲーリングとかも死んだかは忘れたが、お分かりのように歴史を意図的に変えたフィクションだということだ。自分がヒトラーだとは思えないが、彼が映画を観て笑っている姿は自分と同じだった、という告白めいたことは上に書いた。その意味でもノレなかったわけだが、「歴史を変える」という過激なファンタジーにもあんまりノレなかった。今日はその話をしておきたい。

レイシストをぶち殺すってことにさして嫌悪感を感じたわけではない。現実でならおいおい、ってとこだろうが、映画の中でくらい殺してもいいと思っている。この映画で死ぬのが創作されたナチ高官くらいであれば、私だって「民主党中共のスパイで、日本は終わる」とか本気で信じている馬鹿右翼もどきが映画の中でぶち殺されるのを楽しむであろうように、笑い転げたかもしれない。ただヒトラーという歴史的イコンを考えれば、それを「映画が歴史を超える瞬間を目撃する」とか「タランティーノの最高傑作だ」とかいう言葉だけで済ませることが出来ないような気がしているだけだ。

私は別にヒトラーへの無慈悲が「てめえも逆レイシストだ」なる言説を生むとかそういう危険性のことを言ってるんでなく、たった二時間半の映画で歴史なんて変えてしまえる想像力の危険な魅力について話したいのだ。歴史を扱うフィクションはこの誘惑とうまく契らなければいけないと思っているだけだ。

敬愛する山田風太郎先生はその遺作でとうとう天皇に歯牙をかけようとして、ついに果たさなかった。彼は戦中派だけあって、天皇に対して愛憎を持っていたのだが、それでも天皇を殺せなかったのだ。革命論者が甘ったるい激しい調子で「天皇制廃止」を訴えるよりも、うん十倍の深遠な意味がそこにはある。歴史は今、ここにまで続いている。その流れを断ち切っては物語としての魅力も半減してしまう。ロマン主義と罵られようとも、そこでは敗北の美学こそ美しく見える。

物語は基本的に私に並存する別の社会か、時間的に先か後かの出来事を描いている。その枠を取り払うのは容易ではない。とくに過去の事象については、今と直結することである限り、犯してはならない「約束」があるのだ。でなくては、歴史すら一編の妄想と化してしまう。私、はそこにはいないことになってしまう。イーライ・ロスがありったけの銃弾をヒトラーに打ち込む。その死体がどれだけどろどろになっても。そこにあるのはもはや創造できる最高の虚無でしかない。超虚無的だという意味では『イングロリアス・バスターズ』は今年最高の一本だろう。

そして全然笑えない映画、笑うことを禁じる映画であると言える。笑えないのでカタルシスはない。いや正確に言えば、爽快なカタルシスはない。陰鬱なものだけがある。この次元にはまだ私はついていけない。分かったふりしてついていく人のことを責める気にもなれない。ヒトラーを殺す以外にもっと大切なことが他にある。今は。これが70年代であれば、その牧歌的な妄想も笑えたかも知れない、まだ。だけど今は。

全てはただの象徴でしかないにしても、だって、じゃあパレスチナのことは。そう思うと更に気持ちは暗い。手に余る問題すぎて、ちょっとよく分からない映画だ。

そういう気持ちで『戦場でワルツを』を観た。加害者と被害者、戦争の記憶についての良心的な作品だけども、その良心的、というのも逆に難物なのだ、ということ。『リダクテッド』を観た時と同じもどかしさを感じた。
いつかそれについても書きたい。

では。