ポール・シュレイダー Mishima そしてジョン・ウォーターズCecil B Demented

こないだ話してたシュレイダーのミシマですが、日本では観れない作品の有名なものの一つで、これは三島夫人が首をタテにふらなかったからだそうです。とは言ってもレンタル屋に行けば割とすぐ簡単に輸入ビデオが置いてあるので、そういう発禁作品の中ではことさら手に取り易い作品です。
愛のコリーダ』完全版に引き続き、ツテのツテでブルーレイクオリティーで楽しみました。クライテリオンありがとう、そして会ったこともないMさんありがとうございました。Aさんいつもありがとう。

音楽はフィリップ・グラス、主演は緒形拳。グラスの音楽は最近、『ウォッチメン』でも使われてましたね。予告とか、ドクターマンハッタンの火星の場面でかかってた音楽です。ばりばりのストリングス、その狂おしい調和。キンタロアメなのかは知らないけど、今のとこ聴いたのは全部そんなだったなぁ。実験音楽畑の人らには信奉者多そうです。それも分かる。
緒形拳は亡くなられてもうどれくらいでしょうか。日本映画のある局面は彼で出来ているといっても過言ではないというほどの俳優でございました。『復讐するは我にあり』『セックスチェック第二の性』『火宅の人』。とりわけ80年代の名作で多く主演をつとめています。85年のMishimaもそうした一連の作品において、脂の乗り切った彼だからこそ、演じ切れた役で、かつ最大ランクのものでもあるでしょう。

映画はlife in four chaptersと副題にあるように4章で区切られています。三島の美、その技巧、その行動、といった具合で、その概念を代表的な作品の映像化で見せてくれます。
美の概念とは『金閣寺』、芸術に関しては『鏡子の家』、行動には『奔馬』、4章は三島自決の日をこまかく追っていきます。というか三島の「その日その時」の朝から、この映画は始まり、ナレーションと共に人生をふりかえる映像に彼の小説の映像が重なり、互いに浸食していくように織られています。まとめとしては自決が彼の芸術と彼自身が一致する瞬間として描かれているわけです。
私は三島信者ではないので読んでいるのは上の中では『金閣寺』のみというしょうもない状況なんですが、三島本みたいなのは結構かじったので、当日の動きとそれに至る道程はあらかた頭にあります。映画のその日の動きはほとんど史実に沿っていて、文句ない素晴らしいものです。
三島は病弱で祖母に育てられ、ニヒルな男に憧れ、それを超える形でマッチョにこだわるようになり、それがこうじて武士だとかそういうもんなんでしょうか。信者に怒られそうですが、この映画は三島のそうした自己を変革しようとする力、絶対的な力への希求と自らは決してそのような権力を得られないのだという諦めとその仮面をせめてモノにしようという慎ましい努力を描いています。仮面の概念はデビュー作でも言われたものですが、彼の芸術観に透徹したものであるように思います。美しい分身、強大なものに自己を仮託し、それに成り代わろうという欲望で、『禁色』とかに見られたものですが、代表的なものは『金閣寺』でしょう。ここでは分身は美という概念のカタチをとって表象されています。美、日本的なもの、日本、武士、何でもいいですが、フェティシズムもいくまでいくと精神に殉ずるという、より代替不可能なものになっていくのではないでしょうか。その結果があの自決という舞台だと。
それを二時間で魅せる手際の良さ。シュレイダーは何作か観てますが、代表作ではないでしょうか。そして彼だからこそ書けたし撮れた作品だと思います。脚本家としての代表作である『タクシードライバー』のトラヴィスはマッチョにあこがれ、ファシズムにあこがれ、アナーキーな概念を体現しようと切磋琢磨しますが、現実の彼はひよわなただの貧乏白人です。その狂気とは先鋭化した、ただの概念を手にしようと不可能な企てに励む者が陥る必然的な結果でありました。その彼自体は実際は冷静で客観的な監督で、それが色濃く見えるのが『ハードコアの夜』でしょう。彼は自分を保守的な田舎のただの親父に重ねて、彼が地獄巡りを経て、自らを歪曲していく過程を描いています。ラストも結局、自分はただの田舎のバカな親父でムスメッコ一人救えないのだという事実を自分の世代の左右に問うたものとも読めます。彼は仮面をかぶろうにもかぶれない者が抱く狂気を描くことにおいて、三島を描くには適当な作家であると思います。

製作はジョージ・ルーカスフランシス・コッポラ佐藤浩市やジュリーも出てます。沢田はたぶんレナード・シュレイダーの『太陽を盗んだ男』からの続投ですが、なかなかよかったです。

しかし、三島を映像化しようとするあまりに彼のもう一つの大切な仮面をちょっと描き残しているところがあるのではないでしょうか。それは「共同体」という概念です。いや、実際はそれは描かれているのです。226のクーデターもどきの『奔馬』では後の自決を思わせるような場面として映像になっているんですが、彼があくまであの事件を楯の会のものであるとして行ったという局面がやっぱり弱いのではないだろうかと。上に述べたようなマッチョにあこがれ、そうなれなかった男である三島は当然、そのような男に惚れましたし、そのような男たちが集うホモソーシャルな共同体に強いあこがれを持っていたはずです。右翼の思想でよく言われる一人一党の思想を体現する綺羅星たちがその場限り、その瞬間限り、共に起つという幻想に身を捧げたのがあの事件だとして、そうならば当然、二部作にしてでも楯の会の内部というか人間のことも追って欲しかったと言ったら欲張りですが、三島自身が自分のことはともかく森田のことは忘れてくれるなと言っている以上、森田が少しでもむくわれてほしいと思ってしまいます。何よりもこの映画で映像化されている楯の会の血書の場面で彼は三島でなく本名でその名を記しています。この映画のタイトルは三島ですが、ここで彼は三島でなく平岡という一員として存在しているのです。三島は概念を自分の肉体よりも優先したのです。自分の名前や仮面よりも、ここで彼は共同体の概念に命を捧げているとも思えます。
だとするなら森田必勝の存在は共に起ち死んだ者として、もう少し描かれてもよかったのでは、とやっぱり思ってしまうのでした。なぜなら森田こそ三島以上に三島の概念を体現した者であったからです。最初は左翼にあこがれ、その後に恋に破れ、テロリズムにあこがれ、三島にあこがれ、死んでいったその脆弱な精神というのはポール・シュレイダーの描いたトラヴィスとまったく重なるものです。そして三島の自決を命ある者として見る私達はまさにその脆弱さの上でしか生きていけないのですから。

そういうわけで長く垂れ流しましたが、素晴らしい作品ですので観る機会があったら是非。


さて三島はそのように自らの著作を完結させるために自決したのでした。要は自分のテクストが生み出した怪物に食われたというか、その怪物にこそ殉じたのです。
最近、2000年代最初の十年を振り返ってベストを選ぶ試みが多くのブログで見られますが、自分の好きな作品が全く忘れられているのでここでタイトルとを書いておきたくて。それは『セシル・B ザ・シネマ・ウォーズ』です。
09年のベストとも言われたのは『イングロリアスバスターズ』でした。中にはこの十年のベストに挙げる人も多いです。映画への愛だとかタランティーノの新しい映画技法とか、いろいろ皆さん述べておられますが、まずこの作品は映画愛だとかでナチをぶっ殺す作品ではございません。映画をだしにしたやつを映画をだしにしてぶち殺す話なんでございます。というよりは私怨ですし、あくまで映画というのは間接的なモノでしかなかったはずです。そこのところを皆さんお忘れになっておいでです。映画への愛だとか、そういうことでの殺人をとやかく言うつもりは毛頭なく、お門違いだと言っているのです。09年を待たずとも、そうした映画がありました。それが2000年の『セシル・B ザ・シネマ・ウォーズ』です。
自分が崇拝する映画監督の名前を入れ墨で彫ったカルトがハリウッド女優をパトリシア・ハーストみたいに拉致して、まさに映画愛からテロリズムへ至り、作品を完成させ、死んでいくという映画でした。この映画が素敵なのはおたくが誰しも考える趣味的な共同体がまさにファンタジーとして描かれている点です。ウォーホール、ペキンパー、フラー、アルモドヴァル、リンチ、ウィリアム・キャッスル、ゴードン・ルイス、プレミンジャー、スパイク・リーケネス・アンガーなど映画マニアの好きな名前を彫った人らがボンクラの心情を実際行動に移して、つまんない映画を撮ってるやつらをばんばん銃殺します。ついでに警察官とかもばんばん撃ち殺します。日陰モノの趣味を持つ人間からしてみれば、イングロなんかよりも比べ物にならないほど爽快です。ナチなんか殺さなくていいのです。映画はそういう倫理観とはもともとほど遠いただの見せ物娯楽であり、または芸術です。超反動的なイングロよりも映画にはいいものとわるいものがあって、つまんないものを殺すのだという普遍の真理が描かれています。そしてそうした思想とはカルトでしかなく、ただの歪んだ欲望であり、崇高な概念などではなく、その結果とはまさにテレビのゴシップネタでしかないという、素晴らしいエンディングが付いています。歴史を変えるなんてどうでもいいのです。そういうものに立ち向かって負ける、その破滅の瞬間、その美学を観に、暗闇に人は身を置くのです。歴史を変えるのは映画なんかでなく、映画館から出た観客なのです。物語の範疇を忘れたイングロよりも数倍楽しく、そして無意味な『セシルBディメンテッド』(原題)こそ、記憶に残る作品です。