00〜09年代のホラー映画、私的まとめ

さて、90年代をまとめたし、ようやくここに踏み込んでいこうと思う。今、現地点からホラー映画を語るということについては、ホラー映画という映画の総体がもはやジャンル映画的な枠組では相対化しえず、かつてのように怪談映画と怪奇映画だけを取り扱うことでは描き切れない、という難点を含んでいるのではないかと考えている。ホラー映画というジャンル自体が、日本もヨーロッパもアメリカも怪談映画からスタートし、それが猟奇性を帯びて怪奇映画へと歩を進め、さらに今、何処へ行こうとしているのか。もしくはこの10年で何処へ辿り着いたのかを細かく検証していくことで、その展望が少しは覗けるかもしれない。
そういうわけでここからはホラーに興味がない人には敷居がぐっとあがってしまうことは致し方ない。なんでスルーしてください。しかしホラーも映画という媒体の中で他のジャンルと同じような普遍的な淘汰を経て来ているために、そこから更に映画史的な視点でもって、もしくは文化の辿るある道筋という文脈においてこれを読んでもらえたら、何よりの幸いです。
注、90年代から00年代にかけて韓国、中国のホラーも大変進歩し、ハリウッドデビューを果たす監督もいましたが、このあたりは本当に弱いんで、そこ抜きで話すことになります。あしからず。個人的にはこういう日本、アメリカ、ヨーロッパ的な映画の観方があんまり良くないってのは分かってるんですが。

90年代のホラーをまとめる際にあえて述べなかった作品がいくつかある。例えば『リング』(98年)。十年単位でホラーを語るというのはあくまで便宜上でしかないので、やはり90年代後半はこの十年を語る際、重要なものとして歴然としている。そして『呪怨』。この作品は99年にオリジナルビデオとしてスタートした一連のシリーズをいう。
『リング』が日本のホラー映画に与えた影響は計り知れない。高橋洋中田秀夫のコンビがそれぞれ大和屋笠、小沼勝に師事したという事実も興味深い。高橋洋が『女優霊』から描いているのは映画を通して映画の恐怖を語る、ということだ。これはすなわち映画へ耽溺した者が映画という映像媒体へ送るダイレクトなラブレターであり、少し歪んだ悲しい欲望であり、ある種の不可能性への投企である。映画はそれくらい凄いのか?実際のところ、映画も文学も日常に比べるとあまりに些細な無一物に過ぎないが、ではなぜそんな役に立たない代物に私達は心を動かされ、その製作に従事しているのか。その根本的な問いに映画でもって答えようとする映画が『女優霊』、『リング』だった。更にはジョン・カーペンターの『マウスオブマッドネス』(94年)も文学に対する愛を同じような手法で映画化したものだと言えるだろう。映画が世界と切り結ぶ私達の新しい契約を写している、としたら?それが畏怖であり、恐怖なのだ。カーペンターは05年にその問いに再び立ち返ることになる。『世界の終わり』では、映画への愛でもって「映画には大いなる力が宿り得るのか」という問いに何とか答えを見出そうとしている。最終的に分かるのは映画に捕われた者の親しみが映画を作る、という普遍的な真理だ。当たり前のこと、そこに立ち返っていく。何度も。
『スクリーム3』、『リング0バースデイ』といった三部作完結編が00年に公開されていることから、過剰なメタ映画的な視点はここからはナリを潜めることになる。分かった、じゃあそれに変わる新しい映画を見せてくれってことだ。黒沢清は00年に『回路』を発表し、幽霊が怖いのではなく、幽霊になるのが怖いのだという複雑怪奇なテーマを提示している。私達自身が幽霊じゃないのか、といったトンデモとさえ言える問いかけには元々は彼の敬愛するトビー・フーパーのB級精神があり、もしくはそこにハスミ的な批評的視点を見てもいいと思う。そのトンデモな問いは『ロフト』『叫』で頂点を迎える。この2作では『リング』以降の不条理なまでの過剰な復讐が全人類的段階へと蔓延したり、過去から回帰する恐怖が千年単位で主人公にまとわりつく。ここまで来るともうホラーというか善くも悪くも妙な映画である。SFにおいてスコリモフスキが『ザ・シャウト』を撮ったように、日本のホラーというジャンルの裾野がほころび、開かれたことをこうまでも体現している監督は他にいないのではないだろうか。
00年代前半の日本ホラー映画について、もう一気に語ってしまおう。99年に黒沢をして「監督を止めようかと思った」とまで言わしめた清水崇が『呪怨』を発表する。オリジナルビデオで二作、その後もシリーズ化される言わずとしれた作品である。黒沢はちなみに清水の『輪廻』で出演もしている。80年代にコアなファンに対して売り出された「オリジナルビデオ」という様式の枠をここまで飛び越えたのは『呪怨』が初めてだろう。『ギニーピッグ』シリーズなどオリジナルビデオという媒体が日本のホラーにおいて貢献した例は多い。
清水が『呪怨』で示したのは一体、どんな映画像だったのか。小中理論から派生し、それを乗り越える形で否定されていった「幽霊はこう写さねばならない」といった教理、「幽霊視点のカットがない」といったテーゼがここでは完全に破綻しているのが分かる。というか『呪怨』ははっきり言って映画的であろうとすることを止めてしまうことで、90年代後半のメタ的な次元からも脱却している。ここでは時間性よりも空間性が非常に重要視されており、登場人物同士がかするくらいに交差することはあるが、前後の文脈で何かの役割を担っているとか、シーンとシーンの重なり合いでもって大きな物語がドライヴする快感であるとか、そういったものが一切排除されている。残滓物とは何か。『呪怨』が新鮮だったのは「本当に何も起こらないシーンが時おり映画にとりこまれている」ことだったと思う。それ故にラストで「本当にまじまじとクる」ことが好対照になっている。この緩急自在で散文的な語り口が00年代前半を席巻した。04年の『ソウ』も同じようにオムニバス形式を採用したホラーであり、ジグソウが様々に仕掛けた密室という空間性の遊戯を従来映画的と言われて来た時間性よりも優先した。
ただし『ソウ』に関してトリッキーだったのは、その語り口が『呪怨』と同時代的であった、ということよりも、この映画があくまで当初はミステリーの様相を課されていながらも著しく破綻した犯人暴きをやってのけたことだ。映画的な時間において丹念に積み上げられていく犯人像などに観客はもう反応しない。1シーンでも写っていれば誰でもが犯人である、という極度の人間不信と厳罰化への自発的な要請。この危うさをいち早くホラー映画に投入したのは『セヴン』ないしは『キューブ』だった。『ソウ』はジェームズ・ワンという国籍などでなく映画で育った青年が撮り上げた「優れたパッチワーク」としては上出来だった。『デッドサイレンス』でワンはパロディの取り扱いを間違えるが、『狼の死刑宣告』では更にパロディの対象を70年代にまでさかのぼって、『タクシードライバー』に連なる映画的な記憶の「つなぎあわせ」をやってのける。個性の無さなんて問題ではない。大島渚が「映画が純粋に映画として見られる」と言った状況が彼においては無自覚にではあっても体現されていると言えよう。メタ的な回帰ではなく、その記憶に立ち返るのは今までの映画人がずっとやってきたことだ。
映画映画、とずっと言ってきたが、一体それは何なの?という問いに答えておこう。それは一連のカットの積み重ねと編集による抽出によって結論が導き出される物語の型の一つで、それを映像で成していることだと定義しておく。また当たり前のことか、と思われるかもしれないが、そう人が認識するのには結構時間がかかったことを付け加えておきたい。見せ物興行の魔術から、それは御噺へと移行し、御噺ではない、それ以上のことを語るために編集とカットの特性が選択されるようになった。ここまででおよそ2、30年が費やされているのだから、生まれて100年にしか満たない映画があくまでその程度か、と聞かれても何千年と続く文学は、それでは「その程度」なのかと問い返すだけの不毛さがあるのと同じことだ。
その意味ではアメリカ映画、アメリカのホラー映画は00年代はロブ・ゾンビイーライ・ロスの二人の貢献によって骨太な作品が撮られたことにおいて記憶されることになるだろう。ロブ・ゾンビは『デビルズリジェクト』において、グリフィスの時代から最も映画的とされてきた対決劇をホラーに持ち込み、イーライ・ロスはトーチャーポルノ(見せ物)を呈しながらも核心を見せずとも映画は成立するのだという正当な作品作りに徹した。それが『ホステル』二部作である。またこの作品は80年代ホラーへの回帰でもある。グロなものを見せるのには予算がかかる。それを如何に見せず引っぱって恐怖させるか。00年代のアメリカンホラーは飽和状態になったと思われたバイオレンス描写を見つめ直し、残酷さとは見せずとも恐ろしいことだ、という基本構造へと何度でも立ち返る原点として回帰した。回帰と言っても悪い意味ではリメイク作品が乱造されていることにも留意しなければならないが、その中でも『ヒルズハブアイズ』と『ハロウィン』は上に記した意味において、重要な作品だということも覚えておこう。
さて、80年代末期から90年代前半に見られたドイツホラーの快進撃。今度はフランスだ。フランスと言えば、ジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』やバタイユに夜伽を聞いたジャン・ローランの『リヴィングデッドガール』などが思い付くが、日本であまり紹介されなかったからかあまり聞かない。なかなか製作できない、と『マーターズ』の監督がもらしていたが、実際はどうなんだろう。さておき、『ハイテンション』、『変態村』に始まるフランスホラーはこの十年で粒ぞろいの良作を沢山生んだ。叙情性を兼ねながらも凄まじいほど暴力的。モラル完全破壊だったドイツのホラーに比べると、モラルと狂気が併存しており、その暴力にも(何となくであっても)説明がされ、説得力がある故に余計たちが悪いとも言える。アレクサンドル・アジャは後にハリウッドに渡り、『サランドラ』(ウェス・クレイブン)のリメイク『ヒルズハブアイズ』を撮る。これはどっちかと言えば上記のアメリカンホラーの流れで理解した方がよさそうだ。が、この作品が示したヴィジョンはフランスのホラーの特色をある種、浮き彫りにしていると言える。それはつまりジャンル的倦怠をあくまで過剰な暴力で乗り越えようとする姿勢だ。オリジナルでは蛮人に過ぎなかった殺人鬼が、恐ろしいほどにディフォルメされ、全く別の作品と言っていいほどの差異が生まれた。この過剰さは90年代最初にピーター・ジャクソンが『ブレインデッド』で如何にして『死霊のはらわた』を超えていったかということを思い出させてくれる。この先例がフレンチホラーの現状に示唆することは大きい。つまりは過剰さは意外と底が浅いかも知れない、という事実である。
フレンチホラーの現段階での到達点は『屋敷女』と『マーターズ』の2作だろう。その暴力性とサスペンスの巧みさにおいて『屋敷女』は極限まで行った気がする。『マーターズ』はバタイユなどを参照するその奇想とある種のヨーロッパ的精神を恐怖というテーゼで具現化してみせた。この先があるのかは分からないが、とりあえずは燃え尽きたのではないか、と考えている。ブノワ・レタン(ジャン・ローランのころから活躍した特殊メイクアーティスト)が『マーターズ』で作り込んだグロテスク描写は、彼の自死によってしばらくはフレンチホラーにおける力石徹のように、その座を守るのではないだろうか。
そして09年現在、スペインがデジタルビデオ時代の映画というものを『食人族』、『ブレアウィッチプロジェクト』の文脈でジャンル映画的に取り上げている。『レック』がその代表作になるだろう。疑似ドキュメンタリー、もしくはポイントオブヴュー作品と言われる映画群はこの十年で『クローバーフィールド』や現在公開中の『パラノーマルアクティヴィティー』など非常な多彩さを手にした。『レック』はゾンビ映画とオカルト要素の味がするという具合だ。
大御所達もいい仕事をした。各々のフィルモグラフィーを補完するような素晴らしい仕事がいくつかあったと思う。例えばロメロは『ランドオブザデッド』で大きな予算をかけて『ゾンビ』や『死霊のえじき』でやり残したことをやった後、大輪を閉じるように『ダイアリーオブザデッド』を低予算で撮り上げた。アルジェントはようやく魔女三部作を完結させた。ハーシェル・ゴードン・ルイスやフランク・ヘネンロッターが映画に復帰し、何十年ものブランクを感じさせない相変わらずの作品を撮ったりもしたことも楽しいイベントだった。トビー・フーパーウェス・クレイブンもこつこつと作品を撮っているし、サム・ライミは今年、『死霊のはらわた』を彷彿とさせるホラーにカムバックを果たした。一方ピーター・ジャクソンは『ディストリクト9』といったSF作品へのプロデュースにまわっている。
さて、最終章である。話を日本のホラー映画に戻してみよう。
鶴田法男は『おろち』などの堅実な良作を撮り、中田秀夫アメリカで『ザ・リング』を撮った後、怪談映画へと回帰する。清水も渡米しセルフリメイクを手がけながら、『稀人』といった小品をさらっと監督したし、松村のプロデュースなども行った。高橋洋は監督業へ進出し、ホラーというよりはごった煮なジャンル映画を作っている。座頭市や009、『怪奇大作戦』など彼が幼少のころに見たトラウマを焼き印した作品。上述のワンとはまた違った記憶を彷徨している。黒沢清は『トーキョーソナタ』でとうとうジャンルを離れ、今まで描いて来た恐怖のアイデアを日本映画の古典的なテーマ「家族」(小津から溝口、『家族ゲーム』、『紀子の食卓』など)に託している。
日本ホラー映画の00年代末期における新しい監督として、まず白石晃士が目に留まる。彼は『ノロイ』で頭角をあらわし、『オカルト』などの疑似ドキュメンタリーや『口裂け女』『テケテケ』といった都市伝説ホラーを低予算で撮っている。フランス的なグロテスク描写の拡大を日本でも唯一扱った『グロテスク』は『ギニーピッグ』や『女虐』『オールナイトロング』といった系統の最新形として記憶されるだろう。疑似ドキュメンタリーでは『放送禁止』の長江俊和も登場した。テレビと言えば『耳袋』からは三宅隆太といった才人が輩出され、『白い老女』といった佳作をものにしている。もっとも『耳袋』には山口雄大井口昇高橋洋から清水崇も参加しており、オリジナルビデオから1ランク上がったテレビ番組の低予算ホラーとしてかなり成功したと思う。日本ホラーは鶴田式のこまめな低予算方式に立ち返っていると言える。単館でのロードショーとオリジナルビデオ、もしくは深夜番組での作品発表の場に落ち着くことで、一旦、熱があがりすぎたこのジャンルもほとぼりを待っているという現状だろう。
JポップならぬJホラーと呼ばれ、ブームが吹き荒れたこのジャンルも今はその嵐の後、黒沢などの作家がホラーから離れることで廃れるのではなく、また新しい才能が生まれてくることを2010年代に期待しながら、この筆を置こうと思う。

追記
 「小中理論」という言葉を便宜上もちいているが、実際のところは何かのドグマのようなものがあるわけではないようである。しかし、『呪怨』は確かに『リング』等とは演出において異なっている。幽霊視点のショット、そして極端なまでの接近、などなど。