『サスペリア・テルザ最後の魔女』、アルジェント裏口入門

ダリオ・アルジェントの現地点での(日本で公開されている)最新作である『サスペリア・テルザ 最後の魔女』。これは『サスペリア』(1977)『インフェルノ』(1980)に続く、およそ三十年ごしの三部作完結編で、今までで一番ヘンな邦題がついている作品です。原題は mother of tears ですから 涙の母 といったところですか。そもそもこの三部作はトマス・ド・クインシーの本からインスパイアされた三母神で構成されています。こういう三の女神って発想はよくヨーロッパの神話で見受けられます。

で、映画はというと。

評判が非常に悪かったですが、私としては結構面白かったれす。たぶん微妙とか肩透かしと言っておられる方の多くはアルジェント作品初体験の素人であるか、映画好きという香具師であるか、もしくはアルジェントの作品は好きと言いながらも90年代、00年代の作品をたぶん観ていないであろう人と思われます。まぁ、そういう暇はないんだよ、というのはごもっともで、そういう人からすれば、万人ウケの作品でもないですし、面白くないのは仕方ない。
 まず、アルジェント初体験の方にはこれだけで彼のフィルモグラフィーを判断するのは危険だということを言っておきたい。それくらいこの作品にはかつての彼ならやらなかったであろう描写が多い。
 「映画好き」を自称する香具師の方には何も言うことはないですが、まず映画においてもはや特殊技術のちゃちさなんかでは卑下の対象になりえず、映画の出来方というのをきっちりと周到したB級映画を評価しないのは、ただのオゲージツ野郎か馬鹿かであって。つうか、まず数こなせ、たくさん観ろって事ですね。
 アルジェントを知ってて何作か観てる中級者に言いたいのは「これを微妙だと言うならまず『デスサイト』を観ろ」ってことで、00年代の原点回帰的なミステリの失敗作を観てみると幾分かこの作品も面白かったかな、と思えるのではないでしょうか。 
アルジェントという人のフィルモグラフィーは、殺人鬼が出て来て警察や一般市民が犯人探しをやる、というミステリみたいな作品と『サスペリア』に代表されるオカルトじみた作品との2タイプ、またはそれらが一つになったような作品とに分類されます。過去のアルジェント作品であれば、オカルトもミステリというジャンルもまずアルジェントの奇想ありきで、無理矢理そこにジャンルを持ってきて作品化するというような、非常に散文的、かつ言ってしまえば支離滅裂でちぐはぐな映画が多かったのですが、この作品では、アルジェントがかつてないほどに「物語」をやっているのです。そこが今までと違う大きなポイント。例えばかつてのアルジェントであれば、まず涙の母が誰であるか分からない、誰が魔女で誰が善良な人間か分からないというある種の人間不信的なサスペンスが過剰に作品に盛り込まれていたはずなのですが、今作では涙の母がすぐにそのものとして登場し、誰が「犯人」であるかが明確に具現化されています。

過去の作品を観ると初期の『歓びの毒牙』や『サスペリアpart2』では「犯人」が二転三転する上に、物語が解決してもすっきりしない謎が作品に満ち満ちていて、しかもその謎の残り方が非常にシンボリックというか神秘主義的でして、「罪を憎んで人を憎まず」というような「犯人」とは言うものの、まるで鬼ごっこをしていてたまたまその人がオニだったような「犯人」に対する必然性が非常に薄く、そのために「犯人」を断罪して殺してしまうことが逆に観客に罪に感じられてしまう、そういうベクトルを持った作品が多かったと思います。

ヒッチコックなんかと比較すると分かり易いのですが、サスペンスとかミステリというのは「疑わしい人」と「健全な人」の線引き描写が伏線としてあって、それが逆転したり、好転することで物語はドライヴするのだけど、アルジェントの場合はその線引きがとても曖昧で、全員が「犯人」か「健全(=異常)な人」かという感じで、誰がいきなり犯人になってもおかしくない、そういう不安を描く作家だったわけです。

が、今回は悪が誰でどのような人物かというのが、あまりに最初からはっきりしているために(これが「物語」というものの構造です)今までのアルジェントが決して描かなかったカタルシスのようなハッピーエンドまでもが動員されている。これを作家性の後退と取るか発展と取るかで大分、この作品の評価は別れるでしょう。

第二点に『サスペリア』『インフェルノ』が各々、独立した作品構造を保っていたのに対して、アルジェントはこの作品でそれらをも抱き込んでしまうという芸当をやっていて、こうした他の作品をリンクさせるような、いわゆる「続編もの」を彼は今まで一回もやったことってないのです。それは『サスペリア』前史というものまでにも踏み込んで描いていて、アルジェント自身の三部作完遂に賭ける、総決算のようなものすら感じます。つまり、三部作の完結編でありながら、全く新しい作家性を打ち出した作品であるということです。

結果。
善悪の明確は線引きと「物語」の導入は前作『デスサイト』にも少し影が見えましたが、その試みは相変わらずのちぐはぐなもので、そんなでハッピーエンドでいいのかというデビュー作からずっとある不安定な安寧の居心地の悪さを感じたものですが、アルジェントのハッピーエンドに対する論についてはまた別に回すとして、安直なまでの善悪観念の描写は失笑してしまうほどなので、それをどう捉えればいいのか。単に母子共演などと喜ぶ前にそれが何を意味しているのか考えてみましょう。私はそれはアルジェントの作品に対するスタンスの変化だと考えます。つまり「教師」としてこの作品を製作している。若手スタッフの起用にしても、たぶんアルジェントはこの作品を当時、『サスペリア』などを観た人よりももっと下の世代に対して送り出しているのではないかと思うのです。そう考えると、この単純化はとても効果的で、私としてはそういう衣替えが出来るアルジェントの身軽さって凄いと思ってしまうのですが。

しかし興味深い作家です。アルジェントといきなりの非日常、アルジェントのハッピーエンド論、
とにかく彼みたいな歪な作家に関してはいろいろ面白いことが言えそうですね。楳図かずおと恐ろしく似ている、とかね。ちなみに今作は、これまたかつてないほどグロテスクです。

後記
 コメンテーターが口を揃えて言っている、この作品の現代性っていうのは何なのだ?パレスチナにおけるイスラエル入植者の恐怖、テロの恐怖のメタファーのようにこの作品を捉えると、たしかにあまりに現代的だが、そういう作家というのはロメロなわけで。最近、この世代の作家が気合いの入った「最後の仕事」をしていて、涙ぐましいものがあると同時に若手作家の力の弱さが露呈してしまっている。