政治について語ること

私達はもちろん政治的な状況の中に生きているのだが、どうしてもそれについて大上段で語ることをためらってしまう。そのためらいとは70年代に燃え尽きた前の人たちがもたらした結果であるとすることもできよう。というよりは、どうも現実と政治の関わり合いがそもそも見えにくい時を生きていることから生じる齟齬ではないだろうかと思うのである。そうした状況では何かが変わればという最低ラインに賭けてみる人が多くなるのは当然で、民主党が大勝したのは自民党の政策についてなにがしかの抵抗を示したということに過ぎないのであって、全ての人が自民党の政策の具体的に何処がどう間違っていたのか、ということを理解していたわけではあるまい。そもそもが政治とか国体とか国家というのは不可視の存在でしかなく、それについて語ることとは事後処理に過ぎないのではないだろうか。
結果を計算することは確かに存在するが、それは段階であり、その中間地点には果てしのない未知の空間が存在している。そこに私達はいる。私達は通常の場合、その隙間に眼を向ける事は少ない。何故なら自らの抱える問題や生活、日常が当然の如く存在しており、それが政治的であろうがなかろうが、それは回り続けるからである。当然、私達はその生活における様々な選択において無意識であっても「政治的」な決断をしており、その結果を直接的に被る立場にいる。だが時間は限られている。であるので目にする政治とは国会中継であり、ネットのニュースであり、識者のブログなりツイッターなり、統計なり、テレビのニュースなり、新聞なりということになる。過去の事例についても同様であろう。そしてその中でも情報は限られている。
では何処まで見れば、読めばいいのか。となるともう千差万別で、ちくちくネットサーフして民主党中共のスパイだと考えるもよし、自民党は右よりで嫌だというもよし、日本が終わるだとか記者クラブ廃止だとかいろいろのたまってよろしい。構わないが、そこに優劣があるのだろうか。もちろん何も知らないで朝青龍は悪いと愚痴っている人もいるわけで、彼らに対して政治の意識が足りないとか馬鹿ばっかりだと愚痴るのもよかろう。が、何も知らない者と何かを知っている者という、この区別はやはり間違うのだ。何故ならその程度の情報であれば一度目にすれば誰しもああそうとなるだけであり、テレビが表だとするならそれは裏でしかないからである。裏ビデオを見たからといって喜ぶ童貞と同じで、だからといってセックスのことが分かっているわけではない。
彼らはネットを介して陰謀論的な「正しい情報」を得るだろう。しかしそれだけだ。彼らはネットにおいて熱論を振るうだろう。それが波になることもあるだろう。しかしここまで来れば、政治的概念とはただの烏合の衆をまとめるだけのジャーゴンに堕してしまっている場合が多い。真に政治的な概念があるとすれば、それは個人が体現するものでしかないからである。権力の監視者たちが烏合の衆になる時、それはただの特権意識を持ったスノッブの集団でしかなくなっているということを忘れないようにしたい。彼らの言葉はきゃんきゃんと五月蝿く、同時に胡散臭く、単純に奴隷の言葉である。彼らは文句は言うが、結局は従うからである。
なぜ政治的意識というものが、かような高邁で傲慢なものになってしまうのだろうか。それは人が「何かを変える」という概念から逃れられないからであるように考える。政治について語る人間の多くが青臭く、泥臭い人間に見えてしまう世の中というのは全てを結果で提示することを要求している。その中できゃんきゃん吠える犬は、自分で世の中のなにがしかの団体に所属し、それに飽き足らず、さらに大きな変革を望んでいる欲深き奴隷であるからである。その罪悪を奴隷同士で共有し、広めていくことは可能だ。だが現状においては、この奴隷が市井の人の上に立とうと懸命に論を奏す場合が多い。奴隷と奴隷が殺し合うのだから、生の言論なんてものが余計に汚らしいものになっていく。こうした一部の傲慢な奴隷は理論派であり、自分を変えたり歪めたりすることをせずに、その外部だけを変革しようと望んでいる気がする。彼らは自らが正しいと思っているのでそれも当然だ。
だが果たしてそうか。いや、政治的な概念などを人間が体現しようとする場合、それがその人の本望であるなら、政治的な団体に所属するなり、国体を守るために自衛隊に入るなり、隣人を守るために自らを鍛えたりという地点からしか始めることはないのではないか。そして人間の一生は短く、自分が出来る事とは限られているので、その中から何か一つを発見し、日々それに励むことでしか、あなたも私も世界も変わらないんではないだろうか。えてしてそのように地に足の着いた人間は多くを語らないものである。「何かを変える」ことは地道で懸命な何百年、もしくは何千年の果てしない繰り返しによってしか成し得ず、そしてその「何か」が私達の生涯においては才人でない限りにおいてはただ一つの事象であるという事実を見据えない「理論家」たちは彼らが糾弾する政治家や差別者と同じ釜の飯を喰らっているのだという、せめてそれくらいの自戒を持って頂きたいものだ。頭がでかい人とはやくざにからまれれば、血反吐の中に自らを沈めるのだから、せめてそうならぬようなコミュニケーションを取るしかない。だとすれば、新しい政治の語り方の作法こそが求められているのであって、ことこの国において70年代を脱しない対決型、弁論型の政治批評とはもはや何も生まないということではないだろうか。やれるのは本当に丁寧に政治的決断の結果と結果の隙間を見据える事。それに注意すること。そして自らが課せられた分際において、自らが行動でき、発言できることを虎視眈々と沈着にこなしていくことだ。生活という自分で自分の隙間を埋めていく過程においてのみ、得られる強度があり、それはどんな高邁な思想をも凌駕するのである。