近況

昨晩、弟とヒルクライムとか西野カナとかGreeeenとかそういう最近の邦楽ヒットチャートを聴いてみた。好事家の自分罰ゲームで、こういうことするから沢山の人から嫌われるのかどうかしらないが、私と私の弟の間では「貴様みたいなクズはGreeeen聴いてろ」っていうのは、たぶん最も忌み嫌われる侮蔑の表現だと思った。敵を知るためにも分析が必要だ、聴いてみようということになった。
二人でデスクトップの前に座って歌詞を検索し、youtubeの力を借りて一行一句聞き漏らさず読み漏らさずで聴いてみた。弟は歌詞に重きをおくが、私は彼と違って歌詞カードなんか普段見ない。何て歌ってるか分からないボーカルも沢山いるけど気にならない。けど昨日は全部読んでみた。
気付いたのは季節を歌った歌が多いということと君とか私とか好きとかそういうことのパッチワークで歌が出来ているということ、あと親への感謝をうながす歌詞の多いことなどだった。
好きとか嫌いとか、親への感謝とかそういうこと、この世に生まれて来てありがとうとかあなたと出会えてよかった、とかそういうたわ言を聴いているとそれはいいことで、確かに言ってることは分かるし、大切なことかも知れないと思えて来た。うん、わかる。もちろん私だってそう思う時もある。でもそれは当たり前だ、と弟と確認し合った。当たり前の事を歌ってもいいけど、道徳の教科書のような居心地の悪さがある。これは何だろうと考えてみた結果、二人の結論はその「臆面の無さ」だった。厚顔無恥と言ってもいい。要は「んなこと言われんでも知ってますし」ということで、私達は音楽に対してきっとそれ以上のことを欲しているのだと思った。
親への感謝を歌う時、親に有り難うと言うのならこいつらは実家に電話すればいい。恋人に好きだ、出会えてよかった、というのも同じことでローマの詩人だとか平安の貴族ではないんだから、恋人に直接伝えればいい。
公共の電波に乗せるにはもう一工夫あってもいいと思うのだが、そうした「メッセージ」をこいつらは何の恥じらいもなく、さもノーベル賞をとったような自信満々の顔で歌っている。アルバムのタイトルが「あ、ども」なんとかとかそういうのもぜんっぜん面白くないし、つまりやっていること全てが浅はかでにせものなんだ。好きだ愛だ感謝だという言葉は明確な対象に投げかけられることでしか真実たり得る。それは個的で普遍的な真実であって、虚ろな空間にむかって吐き出されるにはあまりに無防備でつまらない。おれはおまえらに感謝されたくもないし愛されたくもない。そんな資格持ってないし必要ない。もちろんあいつらも私に対して同じように思っているはずだ。なのに、なんでこんなゴミクズを電波に乗せるんだろう。そしてまた臆面も無いレコード会社の人らやラジオ局やツタヤとかそういう人らは私達のような兄弟に対しても愛を囁いたりするんだろう。全部が邪魔で汚らしいと思った。
二人は死ね、とかアホとかつぶやきながらデスクトップの画面を観ていた。けど、それでいいんだと思う。二人が好きな友川カズキの『寂滅』だとかはっぴいえんどの『風来坊』は確かに何にも歌っていないかもしれない。何を言っているのかさっぱり分からないし、風来坊なんてその単語しか歌っていない。けど、それは電話すれば済むことではないし、公共的な真実なんかじゃない。個的だけど、観客に対してひっそりと何かを匂わそうと、伝えようとしている音楽で、そこには若干の恥じらいがある。なぜなら歌っている当人が「もしかしたらこれはゴミ以下かも知れない」とこころのどこかで気付いているからだ。
たぶん最も親しい友人が言うには「人間はカス」らしい。お前もカスなの?と聞いたら、「うん、俺もお前も全部人間はカスだよ」と彼は言った。そこまで達観することは出来ないが、その言葉は実はもっとみんなが言ってもいい言葉だとも思った。ただカスでゴミでクズでも何かやって生きてるわけで、そういうものを人は文化だとか国家だとか平和だとか音楽だとか言っているのだ。
その前提をさも発見したかのように振る舞い、そこに立ち返るように勧めることなど、本当に愚かなことだ。それこそ、そんな資格はてめえにはないという話である。そんなやつらにこそ、本当は「お前はカスだ」「貴様のような人間は死んだ方がいい」「死ね」と歌って欲しい。その時になって、ようやく私みたいなへそまがりがもしかしたら愛とか家族とか大切かもと今よりもっとそう思える日が来るかもしれないな、と思った。