『ザ・コーヴ』上映中止について

観る前
どこの誰か知らないけど『ザ・コーヴ』に関して抗議されるのは構わないけど上映禁止なぞお求めにならないで下さい。
私は別にイルカ漁のどうとかプロパガンダがどうとか賛成とか反対とかそういうことでなく、単純に「観てから」全てを決めたいから、私からその権利を奪わないでください。
私は元来、へそ曲がりでホラーだとか、そういう人がミンチになったりする映画が大好きで観ており、社会的にはそういう趣味だとかは受け入れられないものだと分かっておりながらもそういうものを見続けたいと思っておりまして、だからどんな馬鹿の発言であってもそれを一々もみ消すことないと思うのです。
いつでも自分の発言が社会的にアウトである断罪される可能性があると想像できる私のような人間からすると、常に「社会」ではアウトにならない立場から物申される方々の発言によって、私達はもしかしたら何も言えなくなるのではないかと常日頃から懸念しております。でもどんな馬鹿にもどんな馬鹿な映画なりを作って公開する権利はあります。
観て、みんなで話せばいいじゃないですか。禁止されるほど、私達は馬鹿ではありません。どんなに正しいドキュメンタリーであってもそれは個人の意見から出ないものです。というよりもそれがむしろ個的なものであるから社会を撃つほどの作品が出来上がるのです。監督という個人と対峙するだけの生き方をして参りましたし、これからもそうしたいと思っています。映画そのものは人を罰しませんし、殺しません。
映画は人に人を殺させませんし、罰を与えたり与えられたりしません。ただの光学的な技術です。そうしたただの光の反射を禁止することとはその力を認めるということでしょうか。そんなに凄い映画でしょうか。観る前から何ですが、たぶんただの凡作です、きっと。『靖国』を思い出して下さい。イルカ漁の方々の行為について、この映画に関するゴシップで初めて見知ったという私のような方もきっと多かろうと思います。そしてそれが非難されるべきでない文化であるなら、なおさらモザイクなどかけずに上映すべきです。むしろ誇りであるとしてこちらも映画を作るべきです。モザイクをかけ音声をごまかすことはそれ自体として怪しげな印象を本能的に訴えかねません。
日本に住む人ですら忘れていたものがきっとまだ日本には沢山あり、それを海外の人が奇習であるとして映画を撮っても文化であるなら何も恥ずべきことはありません。例えば私達はアメリカに関する奇習の映画をたくさん知っています。それらをアメリカなり諸外国が禁止したことがあったでしょうか?むしろそれが公の場で議論されることで、外的な視線に晒されることで自我なりクニなりについて考える事が出来ます。
それが事実に反する誤った映画であるなら、そのように意見すればいいのです。誰も今更、『キューポラのある街』を北朝鮮ユートピアに描いているからと禁止したりしません。
自分で考えれば分かるので、考えさせて下さい。その機会を奪わないで下さい。むしろ私が馬鹿であるならなおさら考えるいとまをください。くださいというか返して下さい。上映して下さい。紳士的に対応して、お金を払って観て(その金が何処に行こうとあなたの知ったことではありません)、そして意見して下さい。私も意見します。配給会社なんかに突っかからないで下さい。変な電話もしないで下さい。あなたの品格が疑われるだけです。立派な人間であるなら、寛容であって下さい。言論を封殺する品格とは一体、立派な「日本人」のすることと判断できるか考えてみてください。


観て大分経ってから思う事 内容についてというよりもそれ以前の問題
ある人とこの映画について議論して、私が至った結論とは、日本に住む人だけが日本の一部の文化を正視してこなかったという事実だ。誤解を招く表現かも知れないが、これは日本に限った話ではない。どこの国に行っても観れない映画というものは存在する。もし愛国心というものが、抗議している団体にあるなら、彼等が格下に見るようなクニがもしあるとして、そのクニがやるようなことをしてくれるな、という意味である。
『THE COVE』が日本でのみモザイクをかけられて上映される時、私は『愛のコリーダ』、もしくは『MISHIMA LIFE IN FOUR CHAPTERS』が辿った不遇を思い出さずにはいられない。
愛のコリーダ』、『MISHIMA』も『THE COVE』と同様、日本以外の一部の国では容易に完全版を目にすることが可能だ。言論が統制されているとされる中国においてすら、である。もちろん違法コピーに相違ないが、であるなら私達はもはや海外から買って観るべきで、日本の配給を頼みにすることはないのかも知れない。
靖国』にしろ今回の騒動にしろ、このようにして一部の馬鹿がこの国のまったき文化をこの国に住む人が直視することを禁止してきたがために、全ての問いは有耶無耶なまま放置されることになる。結果としてそれについて口にすること自体がおろかしいのだという雲霧が私達を覆う。
政治について。天皇について。戦争について。宗教について。沖縄について。安保について。9条について。自衛隊について。文学について。部落について。人間について。セックスについて。禁止される映画や音楽について。児童ポルノについて。
今回の騒動を見ると、私達は他者から何かを教示してもらうことを頑に拒んでいるとしか考えられない。『THE COVE』のまがりなりにも必死の問題提起すらも、あのような凡百の作品の問いかけにすらも、肖像権なり隠し撮りといった低次元の、ドキュメンタリーの歴史も映画の歴史も知らず、議論そのものの本質すら知らない、見せかけの「日本人」、「大和魂」という本来の意義を外れ借用されている、もはや死んだ概念と化し、幻想ですらない、「同胞意識」という名のただの愚直な被害者意識でもって不可視としてしまうことで、より「ここ」はこの国から遠ざかるのだ。