『13人の刺客』、善悪のグロテスク

野島康三という写真家の写真集が昨年出版された。表紙を飾るのは長い黒髪を垂らし、櫛ですく女。顔はほとんど見えず、上裸の小振りな乳房を見せているが、エロティックというよりは不気味さを私は感じた。素晴らしい写真集なので是非、手にとっていただきたい本だが、まず一見して思い出すものがないだろうか。
そう90年代からよく映画に登場するようになった仇花、まさに『リング』の貞子に代表されるような女性像である。
私としてはその不気味さも含めて「いいものだな」くらいに思っていたが、実はこれ、当時としては何ら珍しいものでなく、野島が芸術的発想で編み出したものではないのである。「島の女」と呼ばれる一部の観光写真が写真が発明された後に売られていたという。黒髪を美しいものと前提にして、それを長く垂らした女性を多くの写真家は撮っているようだ。野島の写真と同じようにほとんどその表情を窺い知ることは出来ない。
当時の外国人はこの写真を一体どのように思ったのだろう。そもそも観光写真というか外国人向けの写真というのは異国の過剰なサービス精神がずるずると上滑りしたりするものである。例えば中国で売られていたレンツェという刑(咎に問われた者を刻み殺す刑罰)の写真などがそうだが、性的なものか、グロテスクなものという全く分かり易いショッキングな代物が存在したのだから。アメリカにおいても暴動で人間を吊るし燃やすリンチの写真が売られていたと聞く。
さて考えてみれば私達、「日本人」と言われる人びとは当時、「日本人」が美しいと思って被写体としたものを今現在目にして、確かに戦前のピクトリアルピクチャーを代表する野島康三の写真だしもちろんその美的価値を認めるのにやぶさかではないにしても、同様に薄気味悪さを感じてしまう。そも私が「島の女」の存在を知ったのも『リング』の脚本家たる高橋洋が貞子のモデルとしてインタヴューで挙げていたからである。歴史は断絶も含めて歴史であり、たかが知れている。しかし過去の概念を私達が想起する時、それは現代用に味付けされたものである、ということも同時に想起しなければ、人は何度も同じ過ちを繰り返すというのもまた歴史が教えてくれる金言であると思う。

異常に前置きが長くなってしまったが、『13人の刺客』という映画について語る時、上記のようなことを頭の片隅に留めておいてもらえればと思ったのである。というのもこの季節、何本もの時代劇が世に出る。岡田監督までかつぎだしてサムライシネマなぞとのたまっているが、はたして侍魂ひいては大和魂という昨今、とみに言われることの多いこの表現について、上記以上の断絶が実は根底にあるのだということを言いたかったのである。
ゼブラーマンゼブラシティの逆襲』という迷作を監督した三池崇史監督の次作品であり、工藤栄一監督のリメイクでもある本作はまごうことなき侍魂を徹底的に描写していると言える。江戸の文化とは「お歯黒」(グロテスク!!よく再現したと思う)であり「切腹」であり、不条理な封建社会である(主君に「愚かな道を行け」と言われればそれに応えなければならない)。水戸黄門など現れることのない厳しい税の世界であり、庶民という名の下に互いが互いを厳しく牽制し、監視し合う社会であったはずである。もちろん保守的な価値観であろうが、美しいもの、すばらしいものはたくさんあったはずであるが、映画において立ち現れる過去とは大抵、ユートピアの象徴であるのでそのようなマイナス面はあっという間に解消されることが多い。『カティンの森』のような映画を除き、こと最近の日本映画に多い傾向であると思う。仁と徳とを兼ね備えた人格者がばさばさと悪人を「斬り殺す」のは、かつての江戸にそのような人物がいかに少なかったかを示していると言えるだろう。もっともいつの世もそうであるか知らん。
「斬り殺す」と書いたが、それについても水戸黄門的な時代劇ではあまり活写されてこなかったように思う。武士、侍とはひとえに殺人を生業とする職業であったはずである。そのための精神論が武士道と呼ばれるものであった。全ての武術は人を倒すということから不可避ではない。であるので、もちろん刀で斬れば血が出るし、肉が飛ぶのである。そのような決闘のために幕府からロクを喰らう者であれば、平和で安泰な世界など何も楽しくはない。武道を磨き続けても、それを試す機会が少なくなればなるほど自然とダレるものでないかと思う。

『13人の刺客』は上のように思う私のような観客にはまさにうってつけの作品であったと言える。そこでは徳川の血をひくという暴君が如何様にも自由に人の首をはねとばし、女を犯す。そのような愚鈍な者であっても、臣下からすればまさに「上様」であるから、それを諌めたりなどしようものなら自ら進んで腹をかっさばいて死なねばならない。どんな暴君であってもその往く道を妨害したりすれば一国の主も臣下もろともどんどん腹を裂かねばならないのであるから、超不条理の世界である。
そして武士というのは軽薄な理解で言えば死ぬに値することを見つけることだそうだが、この暴君があまりに自由に暴虐を働く存在であるがために、それに対して怒りをぶつけ、仇する動機もまた補完される。ここにおいて13人の刺客が招集されて、全員が人を殺し、自らも死ぬために嬉々として参戦する。戦場は血まみれになり、死体の山が出来るだろう。

超絶的な悪がもし存在するなら、という仮説は『告白』や『ザ・コーヴ』のように訓告として用いるべきでなく、まさにこのように自らも悪と化すことによって描かれるべきだと私は思う。この義賊達がもっとも人生において充実した殺戮の時間を過ごす時、もちろん平安の世に生まれてしまったがために狂人とされる暴君も最も充実した「楽しい」時間を過ごすからである。暴君は死ぬ前にまさにそう告白する。
この課題は『ダークナイト』や『ダーティーハリー』といった数々のアメリカ映画においても描かれている。善玉が輝くのは最も醜い悪玉が現れる時と決まっているのだ。(ついでに言えば『仁義なき戦い』はこの矛盾にあまりに接近したためにカタルシスが描かれない作品になってしまっている。名作である。)

三池崇史の『13人の刺客』は私達が抱くトリートメントされた江戸像、武士像を無惨にも破壊し、非常にグロテスクなものを眼前に差し出す。それを私はかつて異国の人が中国の拷問写真やアメリカの私刑写真を見て楽しんだかのように楽しんだ。人が暴力性を嫌悪すると同時に免れぬ魅力をも感じてしまうという普遍的な真理に到達する映画である。そう思えばこれは説教臭さを脱臭したミヒャエル・ハネケの映画であり、独善的批判者である嫌味を抜いた『ナチュラルボーンキラーズ』であると言えるだろう。三池崇史の即物性とある種の無常観が正攻法の脚本の常に裏を這いながらも、王道とも見える堂々たる作品だと思う。

追記 『仁義なき戦い』について少し述べたりしたが、この問題は本当に数多の作品で取り上げられている。上に挙げた『ダークナイト』ではナルシスティックな姿勢でこれを乗り越えていたし、『ロードオブザリング』三部作は悪と向き合った結果、フロドは絶望してこの世界を去る。(世界は救われたが私は救われなかった、と彼は言う。)ポール・シュレイダー脚本の『タクシードライバー』、『ハードコアの夜』や三島の映画などもこの系譜として考えていいだろう。
最後に言うと『水戸黄門』を批判しているような文章に読めるかも知れないが、それを欺瞞であるとか言っているのではない。私はあのシリーズは好きです。