映画『恐怖』(高橋洋監督作品)について

映画『恐怖』についてのまともな言説というのがあまりにネット上に不足している気がして、何となく思う事をふらふらと書いてみます。

まずこの作品に関してあまりに不評な意見が目立ちますけど、皆さん期待してらっしゃることがズレてるなぁという印象です。とりあえず「Jホラーシアター」の中でも恐らく最も低予算の映画で画面を漂うある種のチープさであったり、高橋洋があくまで脚本家で映画作家としてはまだ発展途上の段階にあることや、撮影が芹澤明子であるにも関わらず「あんまりいいショットがない」(=やっぱり監督の指示で変わるもんだなぁ)とか、およそ現在考えられる「Jホラー」的表現から逸脱するために作られた作品であるとか、確かに理解するのが難しい=編集とか時間軸がまずいとか、でもそれはあくまで理解するのが難しい作品というのを作るんだっていうことを怖がってないっていうのは逆に勇気あることなんだよ、とかとにかくそういう細かい良し悪しはあるにしても、この作品は現時点における日本のホラー映画の極北であり、十年に一度の大怪作だ、ということをもう少し知っていただけたらなと思います。

この映画が何故に現時点の日本ホラーの極北たり得るのか。日本のホラー映画は様々な意見があるのは分かりますが、大別するなら90年代に怪談映画から恐怖映画へと全くパラダイムシフトしたのです。それが『邪願霊』、『ほんとにあった怖い話』を嚆矢として『女優霊』、『リング』へと発展し、ついに『呪怨』に連なる系譜です。もちろん実話系や怪奇映画系、もしくは恐怖映画系というホラーという中でのサブジャンル区分は様々にあるにせよ、ここでは幽霊怪談映画から幽霊恐怖映画へとシフトした、というのが私の理解です。
90年代まとめ
http://d.hatena.ne.jp/crossing1031/20091104/1257361611
00年代まとめ
http://d.hatena.ne.jp/crossing1031/20091111/1257966911
そして代表的な作品のほとんどに関わっていたのが今回『恐怖』で脚本監督を務めた高橋洋でした。後に高橋は『ソドムの市』、『狂気の海』といった佳作を撮りましたが、それらはどっちかというと彼の仕事で言えば『発狂する唇』や『血を吸う宇宙』に近いものだったので、自ら書いた恐怖映画脚本を映画として監督するのは、今作が長編としては初めてであり、かつ「集大成である」と公言しているくらいです。

この作品の魅力の最大のものとして「わかりにくさ」を挙げていいと思います。この映画は片平なぎさ演じる科学者が夫と旧満州での実験を撮った映像から始まり、次のシーンではその娘の一人であるみゆきが練炭自殺を図る場面に強引につながります。そして謎の嘔吐とタイトル。この唐突な嘔吐場面は高橋が『恐怖』の案を練っている際に頭に置いていた怪談「三角屋敷」を感覚的に喚骨堕胎したものです(ヨモツヘグイのエピソード)。不可思議なものに触れると肉体が変調をきたす、というと何だかクローネンバーグみたいですが、それを楳図かずおのびっくりどっきり精神で描いた場面と言えます。しかしもっぱらの観客はそんなことを知らないのでただ驚くばかりです。さらに場面はその前日譚へとシフトバックして、妹のかおりが父の命日だし姉に電話しなきゃ、という冒頭の場面へとまた戻って来ます。中盤から後半にかけては現実と夢とを主人公たちがデヴィッド・リンチの映画(『マルホランドドライヴ』などの諸作)のように行ったり来たりするので、さらに物語は錯綜します。ちゃんと観てればついていけますが、ポップコーンがすすむ映画でないことは確かです。時間軸の破壊された物語であることがラストにおいてより明確になり、私も含めた多くの観客が取り残されること必至です。
それと同時にこの映画はそのタイトルとは裏腹に一体何が恐ろしいのか、その具体的な事象が何であるのかについての明言が登場人物たちの間でも避けられ、ずれていて、理解しづらいものがあります。登場人物がそれぞれ固有の恐怖の物語を所有しているのです。みゆきとかおりの姉妹は昔に観たある映像(呪いのビデオの再来)に対して恐怖を感じていますし、反対に間宮悦子(なぜ家族と離れているのか、名字は一体何なのか、彼女の仲間たちとの関係など一切が説明されません)はその姉妹が恐怖を理解し解放されていくのと対照的に自らの実験の結果に恐怖します。服部は手を下して死んだ男性患者が怖いのですし、理恵子は死を希求しながらも死後の世界の存在を恐怖します。映画『恐怖』は様々な人物が自分が怖いと考えるものを次々と目撃し、ひたすら怯える映像を集めたものであり、そこでは現実が一つでないように恐怖もまた一つではありません。ただ根底にあるのはクローネンバーグが『ビデオドローム』や『イグジステンズ』で描いた、現実が不確かであり、ふと足をすべらせると「狂った世界」が口を広げて人びとをとり殺してしまうのではないか、という恐怖です。

高橋洋のインタヴューなどで『ビデオドローム』のタイトルは明言されていますし、何より自分が昔観て怖かった映像に取り憑かれている監督であるので、その影響は間違いないでしょう。加門七海の「三角屋敷」から雑なオカルトワードを取り払ってみて、私達の日常が実は狂った男の実験に過ぎない、という風に再解釈してみるとこの映画は「三角屋敷」であるとも言えますし、『ビデオドローム』のようにうっかり受信してしまった映像を目にしたがために死の世界に取り憑かれ、遂には現実を変革し、破滅していく物語であるとも取れます。音楽も『ビデオドローム』に似せてありますしね。
もう少し元ネタ探しで言えば、「匂い」についての言及はアーサー・マッケンの『パンの大神』における性的表現の暗喩です。男と寝た翌朝に手のひらの傷(女性器のイメージ)から血が流れ出る場面など時おり性を滲ませる場面があります。これはパン(色欲の化身)に取り憑かれた娘が社交界の男達を破滅させていくマッケンの作品の換喩です。
白いドロドロは辻真先脚本の『サイボーグ009』からのイメージであると監督が言を添えています(『太平洋の亡霊』に続いて再び)。
「こわいもの」を現出させるよりも、それに触れてしまって狂ってしまった者の方が怖い、というのは楳図かずお的ですし、マッケンの作品における中心的空洞(稲川淳二の『生き人形』も同じです)を思わせます。正確に言えば、狂ってしまった者を目にした時、人はこの人を回路として、真の恐怖の一端に触れてしまう。だから、真の恐怖への回路となる、このような狂人の現れを忌み嫌うのです。

黒髪の女が出て来るホラーがクリシエになってしまった今、かつて黒沢清の『回路』がホラーの裾野を広げたように、回収不可能で表象不可能な暴力を物語のくさびから解放したまま作品として放出させた『恐怖』はまさに『回路』以来、十年ぶりの大怪作であり、「わかりやすさ」に毒された私達の解毒薬となることでしょう。観客を傷つけないよう毒を抜かれた作品よりも、私達を破壊しかねない有毒性の映画がこれからも沢山作られますよう祈りながら筆を置くことにします。

追記
高橋洋がある対談において、神の愛とは石の雨が降るようなものだと答えているのを読み、深読みすれば、『恐怖』はそのような超常的存在が現われてしまう映画だと言えるでしょう。ともかく高橋洋の理論的、感覚的な「恐怖」のおそらく現時点での集大成となった作品であることは間違いなく、彼のその理論、感覚をキャッチすることが出来れば(そのようなひまがあれば)決して難解なだけの作品ではありません。