『冷たい熱帯魚』、素晴らしい世界

 近年稀に見るウルトラ暴力映画『冷たい熱帯魚』は確かに最近の欺瞞に満ちた一部の日本映画の風潮に対する、限りない罵倒、嘲笑であり、「癒しという麻薬」に溺れた観客に対する荒治療、リハビリとも成り得る作品だった。私は前評判よりも楽しめなかったが、それはこの映画がつまらないのではなく、現実がそもそも凄まじく、いびつであることをそのルポ本『愛犬家連続殺人』を読んで知ったつもりになってしまっていたからだ。ルポ本というか、吹越満演じる人物に相当する「共犯者」が書いたとされるこの本は実際かなりおそろしい。現在は『悪魔を憐れむ歌』というタイトルで別の著者名で出版されている方が手に入りやすいはずなので、興味をもたれた方には一読をおすすめしたい。この事件から生まれたもう一つの映画、『ヌードの夜愛は惜しみなく奪う』も是非観て欲しい作品である。
 『冷たい熱帯魚』は冒頭にクレジットされるように、この事件を映画に喚骨堕胎したという側面が大きい。かなり依っている。「ボディを透明にする」という表現や人物関係などルポ本を読んだ者からすると終盤までは、その忠実なレールに少し物足りなさすら感じるかも知れない。とは言っても、ここまで現実の事件を、この予算で映画にするのは近年ではかなり、かなり稀であり、その表現の手抜きの無さも大絶賛に値すると思う。まこと容赦ない作品である。
 何より終盤の怒濤の展開がすごい。映画は現実という下敷きを離れてまさに劇として動き出す。吹越のアフォリズムめいた台詞も、その卑小さがかえってこの人物に真摯に寄り、迷った監督の、それでもこの卑小で卑俗な台詞をこの人物は口にするのだ、という確信を感じさせる。というよりも登場人物はもはやそういった批評など超えてしまっている。もしこの作品があの事件の映画であるとすれば、現実における暗闇の飛躍をこそ映像化しなくてはならない。ボディーを透明にする、とか通電がどうしただの(『消された一家』)、こうした全く考えられない飛躍を人は時おり経験してしまうという心底恐ろしい定理こそがまさに終盤で描かれている。
 園監督は新作『恋の罪』をすでに控えている。「気をつけあそばせ、この女、下品ですから」という秀逸なコピー、さらに『冷たい熱帯魚』でモノにした実録犯罪路線でここ三本は撮るということで、期待が高まる。もしかするとその先にはノルウェーブラックメタルの冷徹なセクト闘争の映画も待つだろう。園子温はこのまま五百人中一人か二人をターゲットにどんどん撮っていくに違いない。その先に何が描かれるのかは観客とのチキンレースであって、もう私は脱落しそうである。
 この映画の特色をもう一つ挙げるなら、やはり何と言ってもでんでんが大熱演する主犯の人物造形である。インタヴューによるとこれには脚本に参加した高橋ヨシキその人の色が濃く表されているようだが、厳格なキリスト教徒の父によって育てられたという過去のとはずがたりの場面、そして車の中での細々とした独り言は園の前作『愛のむきだし』を想起させるに易い。この作品もまた壮大な園サガの一環であることに一瞬、くらくらするような心地を覚えた。世界は広いのだな、と卑小な、卑近な言葉をひしひしと思った。
 この作品は単なる露悪的な、扇情的な、残酷な作品ではない。いや、そうとも言える。猥雑で下品で汚い作品でもある。ではこの作品はどのように世界を開示しているか。素晴らしい世界である。なぜなら意味が全く分からない不条理が描かれているからだ。
 すべて作品は(大分、かっこつけた表現だが)、この世界の意味不明さに対して思いっきり開かれてもいいと思う。その最たる好例と言える。この作品が宇宙へと収斂していくのもあながち単なる悪フザケ、突飛な発想とは言えないのではないだろうか。