『告白』を捨て『ヘヴンズストーリー』を選び取る

 ようやくのこと、四時間半にもわたる大作『ヘヴンズストーリー』を観ることがかなった。全くよくもこんな作品を撮れたものだと思う。ラストの歌はあまりに恥ずかしいし、復讐代行人という人物があまりに巨大なノイズとして物語に配されている。光市の事件をモチーフとした脚本はあまりに重いし、悲惨に悲惨が重なり嗚咽する人物がげんなりするほど多い。一歩間違えば、表現の加害という側面を無視した最低な涙の映画にもなりかねない。それでも登場人物は嗚咽し泣き崩れるし、復讐代行人は呑気によく分からない抽象的な武器である銃でぱんぱん人を射殺するのである。
 私はこの作品はそれらの欠点を呑む、強大な作品であると思う。憎しみと悲しみが覆う世界の中で、それでも少なくとも監督はこの人間たちを心から信じている。瀬々監督の紛れも無い全てが投影された作品であり、物語という渦に作り手こそがもまれたバベルの塔であって、迷作であっても決して駄作ではない。
 一方、私は『告白』という映画をこれと好対照を成す、不信の作品であると考えるに至った。観た当初はその「過激な」口当たりに衝撃を受け、そしてよくよく考えさせてくれた、悩ませてくれた作品で、大ヒットした作品である。松たか子の演技や少年たちを演じた俳優の勇気は素晴らしいと思うが、結果として私はどうしてもこの作品が好きになれなかった。は、また有名作を貶めて、少しマニアックな作品を選び、そして自分の優位性を確保したいのね、そういう居丈高な姿勢を上から目線などと言うのだよ、といった批判もあると思う。はっきり言う。それは違う。上から目線というのは、自らが信じ得ないことを他人に信じるよう強要する姿勢をいうのだ。それは自らを常に貶めるものだけが得ることの出来る批判であり、愚劣な同族意識のたまものでしかない。そうじゃない。人は分かり合えないという土壌の上では上下を持たない、むきだしの存在としてある。
 言ってしまおう。このクニに限ったことでなかろうが、人は人と同調したいと思わざるを得ない業を背負っている。それに甘んじることに私も含めて何らの悪びれることは一切ない。なくていい。しかしそれが一旦、結束し排除の理論を振り回すようになれば、まさにその業は害毒以外の何ものでもない。そしてこうした結束が無意識のうちに結ばれるものである場合、より悪質な結果を生むことは歴史が証している。無意識的結束とは国家であり、道徳であり、表現であると言い換えることが出来る。
 確かに居丈高な文章だろうし、こっぴどい批判もあるだろう。でもあなたと私は同じところにいる。これは欺瞞でもなく、単なる事実として。何も言ってはいけないことなどなく、語ることでしか人は前に進めない。怯えることを止さなければ、自己などというものは現われて来ない。そしてその怯えから解放されることは私にもあなたにも難しい。このような長々とした自分語りを続けて、なんとあさましい男だと思ってほしい。
 私が上記の二作品を結びつけて考えたのは、その物語、その登場人物との関係性が全く相反するものだからだ。私が『告白』においてもっとも不快なのは、登場人物をさも玩具のように扱うその脚本の惨たらしさであり、浅はかさである。そこにあるのは最終結論のために虐殺される抽象的な被害者であり、単なる露悪的な妄想としての少年像であると私は思う。なるほど少年は罪を犯してそれを誇っているとしよう。かつその病についての中傷的で一般的とすらされる(この地点で侮辱だが)偏見を有しており、猛烈な潔癖性をこじらせることにしよう。さてこの超観念的な少年は自らの母すら刺殺するに及んで一切の後悔から免れる。ここで書き手はより「悪質な」人物を描くことに夢中になり、単に極端になっている。
 世界がない。世界が無い世界が描かれたパルプフィクションが世界系などと括られて久しい。その最悪の最終形だと言える。人を殺した少年はまず殺人という飛躍を経験する。水に落ちた被害者があっさりと死亡するのはまだよしとして、予測されるであろう最悪の事態がこの少年の予想(観客の予想)を大して裏切らないこと(この程度で意外とは出来レースである)が、この物語を徹底的に弱体化させている。多くの人が経験することのない飛躍、殺人はもちろん陳腐で身も蓋もない、単なる即物的な物質変換であってもいい。もしそれを作り手たちが心から信じている、ならばだ。告白とは白し告げること、包み隠さず己をさらすことを意味するにも関わらず、二人の少年は松たか子の復讐を観客にとってノイズとさせぬための単なるうすら馬鹿として描かれている。この少年たちに一切の矛盾(内面)は許されない。なぜなら松たか子に同化した作り手の罰を与えたいという欲望が優先され、松によって実践される悪意にのみ基づく仮定による「教育」(=完全犯罪)こそ、この作品の根幹であるからだ。
 確かにあまりに一面的な観点であれば「改心しない少年」という論は成立する。全く笑えない作品というのは、映画のまったき美点の一つでもある客観性、引き目で眺めることを放擲した単なる独りよがりな作品(客観視点の独我論ほど恐ろしいものはない)としか言いようがない。ましてどのような言葉も松の言葉にしか集約されないような、オナニスティックな夢想を物語として美化するのが私には受け入れられない。サド公爵でもないような者が、かくのごとき信条を得るとはどうしても信じられないのであり、だからこの作品が単なる露悪趣味で調停者としての自我をのみ満足させるような作であると考えるのである。
 映画とは、物語とは私にとって目を開かせてくれる一つの媒体で、私の知らない世界を描き、知らない人物にこころを寄せ通わせ、その人物が去るのが惜しいとさえ思えるものだ。ドゥルーズ『シネマ』のこの言葉を考えることによってそう思うようになったと思う。
 
 「信頼はもはや別の世界、あるいは変化した世界に 向けられるのではない。 (中略) 人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみ とりかえしがつく。ただ世界への信頼だけが、人間を、 自分が見かつ聞いているものに結びつける。 映画は世界を撮影するのではなく、この世界への信頼を、 われわれの唯一の絆を撮影しなくてはならない。」
 
 マッキンタイアは人を物語を生きる存在として定義しているという。その物語とは高橋洋の、大和屋笠のいう「裏切り」に満ちたものであり、佐藤真のいう「横溢」であり、三島由紀夫のいう「音楽」であり、原一男のいう「のっぴきならない何か」のことであるはずだ。そこでは常に主観を破壊する飛躍が連続しており、作り手個人の都合を超えて登場人物は躍動するのである。純粋な悪、善が登場するのも同じ世界であるが、であるならもっと適した構造が『告白』にはあったように思えてならない。
 『ヘヴンズストーリー』に何の欠点もないとは思わない。最初に述べたようなあからさまな欠点も含め、様々あるだろうが、「作す物語」と「作される物語」は物語から照射される現実を明らかに異なって捉えていると思う。観客としては人形作家が抱く論理的飛躍や加害者の「おおきなもの」を用いる屋上での演説が恣意的ではないとは言えないし、先述したようにあまりに分裂的な復讐代行人の人格に戸惑いもする。だが後半の展開において加害者と被害者が如何にしてケリをつけるか、人が人を殺すということについての考えは怯え、軽さ、怒り、空しさ、逡巡など非常にゆたかで多彩であり、『告白』よりも遥かに深遠であり、その深遠さを描くことに希望が込められていると感じる。だから私はこの作品を選び信じたいと思うのであり、このような恥じ入る作品が真の「告白」以外の何であろうとすら思うのである。

追記
私個人としては、『告白』はPVみたいで映画的ではない、だから駄目なのだなどと言いたいのではない。単に登場人物の感情の起伏が欺瞞だと思うだけのことで、これは阿呆な原作が抱える欺瞞であり、映画にその責は無い。そして涙、感動という感情の誘導が本当に余計、余分である。もっと単純に、例えば鈴木清順のように闊達で悪びれることない娯楽作品としてこの作品が成立していれば、傑作に成り得たかもしれない。意味の無い推測ではあるが、黒沢清が『贖罪』を撮り終えた今、その作品が俳優の肉体的な動きに注視したものとして仕上がっているのを期待している。原作のくだらない、絵空事のエモーションに依らず、俳優の単なる動向を追う作品が観たい。