『セックス・ハンター 濡れた標的』、夷敵を殺す本性

 良作。
 脚本は大和屋竺。プロット自体は70年の『野良猫ロック セックスハンター』とほぼ同じ。姉を米兵にレイプされたおかげで不能になり、外国人やアイノコに異常な執念を見せる主人公には、かつて藤竜也が演じたバロンの面影がある。主人公は米兵に復讐を誓う。しかしレイピストらはベトナム戦争で戦死したり、不具になったりで復讐しようにもそれが不可能であったりするのだ。葛藤の末に主人公は金持ちの外国人向けの白黒ショーに加担しながら、自らを嫌悪の対象と同じくするという諦念の極致に達するが、外国人客の横暴な振る舞いに耐え切れずに彼らを射殺、自らも銃弾に倒れる。
 米兵だとか安保だとか、ある種の戦後の歪みを指弾した作家として当時の数多くが思い浮かぶが、70年代前半はかろうじてその歪みを体感できる時代だったのだろうか。今ではそれらがあまりに日常的なことに組み込まれていて、正直ぴんとこないとこもある。しかしまだ何も終わってはいない。
 この映画だと『野良猫ロック』と異なるのは主人公自身もアイノコだということだ。彼はどうも黒人と日本人の混血なのだが、その点は消化不良で幕が降りる。(『野良猫ロック』では安岡力也がこれに相当する大助演だったが、あくまであの映画の主題は梶芽衣子演じる主人公の悲哀であったと思う。)今作ではバロンと安岡という二つに分割されていた人物像が一つとして描かれていると言えよう。狭義の血を超えて近しい者をあわれむ心情ゆえに主人公は異国の人間を射殺する。
 この映画はバロンのような外国人排斥といった右寄りな思想を持っているというより、金のためにへこつく人間を最低にいやらしいものとして描いていて、これはパゾリーニファスビンダーファシズム以後の社会に生きる一部の人間を金にまみれる豚のように描いたことと頭の中でリンクするので妄想はふくらむ。しかし脚本はやっぱり雑多な印象を受ける。赤い鳥居は天皇制の象徴だろうけどことにまとまりに欠けるし、散漫であるのは否めない。オチだってもうすごい投げやりである。
 何よりも主題歌の気持ち悪さが際立っている。72年の作品だけあってそうとう鬱屈としている。おれらはみんなかたつむり、どんだけがんばってもせいぜいなもんさ、みたいな気持ち悪い節回しの歌でかっこいいような気もするが、毒気が強過ぎてついていけない。
 大和屋が二度も描いた米兵への奇妙なコンプレックスとは一体何だったんだろう。血など関係のない本性的、動物的な排斥の欲求という悲惨を描きたかったのだろうか。
 ベトナム戦争に行く前日に女をレイプする、で戦争で負傷する米兵のことを主人公は「なぜちゃんと裁判しないのだ」と警察に詰め寄るが、警察は「そんなことやってたら戦争なんて行きたくない兵隊はみんなレイプ犯になっちまうだろ」と返答する。自分だったらせいぜい万引きくらいか、そこまで行き詰まったらやるものか、などとあえて米兵の視点になってみる猶予もあることを考えればある意味では『野良猫ロック セックスハンター』のテーマを深化させていると言えなくもない。
 あ、そうそう。『女地獄 森は濡れた』の伊佐山ひろ子が出ている。