楳図かずお『わたしは真悟』、想像力の臨界点

 楳図かずおの神髄はやっぱりすれ違いだ、と思う。読者と作者がすれ違う、登場人物もすれ違う、交錯する。登場人物たちは最善を尽くそうとするが、安易な幸福が彼らに訪れることはない。そうした幸福を読者である私も少なからず望んでいる。でも楳図はそれをやらない。というよりやってくれないところにこの作者の物語が始まる地平はある。ただ一度のすれ違いが一生、その登場人物についてまわる。恐怖とは過去の一度の交差からやってくる。
 この物語の冒頭にあるように全ての人に必ずや一度は奇蹟が起こる。ただ誰もそれに気付かないので、それは他人の目には過酷な悲劇のように映る。何と言っても誰も何も間違いを犯していないのに幸福が訪れないからだが、本当の報いとはまさに全身全霊を賭けて勘違いすることから生じる一瞬の奇蹟であるから致し方ない。甚だしい勘違いが登場人物らの生を激しく揺り動かす。
 善くも悪くも「やさしさとは狂気と同じくらい抽象的なもの」(デヴィッド・リンチ)だから徹底的に勘違いした、彼ら登場人物にとってのほんとうのやさしさの結果は彼ら自身には悲劇的な結末としてかえってくる。もしかすると、楳図はここで更なる悲劇を呼び起こすことも出来るが、作者が少しだけ人物にやさしくなるのはまさにこのタイミングで、ラスト付近の駆け足ぶりは毎度のことだが、それは作者と読者の感情が激しい奔流となって一瞬だけ、交錯するからだ。徹底的に報われなかった人物にほんの少しだけ、何かを予感させる兆しが訪れる時、登場人物でなく読者がそれに気付く。読者のみに凍るような奇蹟を見る瞬間が許される。烈しい嵐が過ぎ去ったように、読み終わってふとこの読書が楳図かずおとの真剣勝負であり、その嵐に遭遇し、すれ違ったことに呆然とした感動を覚えるはずである。想像して想像して怒濤のようにすれ違うことで楳図かずおはあなたの想像力の臨界点さえ超えたのだ。