『エンジェル ウォーズ』 不意の一撃

 19世紀末にルイス・キャロルが『不思議の国のアリス』を発表してから、数多のアーティストたちがこのモチーフを題材としてきた。それらは絵画(ヘンリー・ダーガー!)、文学、映像などあまりに多岐に渡り、さもガンジス川のような一大潮流となっている。
 ザック・スナイダーがリメイクでもなく原作映画化作品でもなく満を持してのオリジナル作品として挑む Sucker Punch 邦題『エンジェル ウォーズ』もまたその大河の一滴を成す作品である。
 精神病院に監禁されている少女たちが脱走のために地図やナイフ、ライターなどの「アイテム」を看守たちから奪おうと計画する。目くらましとして一人の少女が彼らの前に出て何やら性的なダンスを踊る(このダンスは可視化されない)。ここに仕掛けがある。主人公のベイビードールが踊る時、それはすでに彼女の妄想の世界の出来事なのである。その世界では精神病院は売春宿であり、主人公と行動を共にする少女たちはそこで働く娼婦へと装いを変える。この想像力の階層には更にもう一層の地下が存在する。それは主人公が踊る際に脳内をよぎる、まことファンタジックな世界で、ドラゴンなりロボットなりナチなりサムライなりといったガジェットが横溢する。
 作品に施されているあまやかな効果は階層を下れば下る程に増し、現実へと近づく程に苦いものとなる。おそらく看守たちは精神病院に収監されている少女たちを金で売っている。主人公のベイビードールが踊るダンスも少女売春を暗示しているだろう。しかも五日後の彼女にはロボトミー手術がなされる予定である。
 辛く生々しい現実をあまやかなファンタジーへと置き換える作者は賢明だ。何故なら、もしこの映画を冷徹に現実パートだけで映像化しようものなら、ほとんどの国で上映できないような代物(町田ひらくの漫画をハリウッド予算で映像化するような代物)を生んでしまうことになる。然して、その過酷さこそ彼女の想像力を駆動させる燃料となる。
 私たちはすでにそのような映画を数多く知っている。もちろん『未来世紀ブラジル』を想起するし、近年の傑作では『パンズ・ラビリンス』がある。これらの映画では人間の持つ想像力こそ、賭けるに足る最も素晴らしいモノだった。そしてまた同時に主人公はその烈しい想像力と引き換えに様々な代償を払っていた。逃避と呼ぶにはあまりに惜しい、この痛ましい力はそれを抱く者にもとより不幸を招きかねないのだ。ザック・スナイダーの本作でも代償はあまりにも大きく、見返りはあまりにも小さい。最小の見返りを求めることの勇敢さを鼓舞するアジテーションで映画は幕を降ろす。
 プロットはとても魅力的なのだが脚本が弱い。裂傷から少しずつ膿みがあふれるように、結果として壊死を免れぬほどの減点はないが、それでも魅力は半減している。『ダークナイト』を観た時も思ったが、なぜこのようにイベントを並列したがるのだろう。確かに少なからず各々の出来事には関連があるが薄い。一つの有機的なものとした方が快感は増すのでないだろうか。何より地図、ナイフ、ライターといったアイテムにおいて難易度の差が乏しいのは致命的だ。順番に必然性もなく、階段を駆け上るような盛り上がりにも当然、欠ける。必然性ということで指摘するなら、この少女たちがこの少女たちでなくてはならない理由も乏しい。チームワークが特に映えるわけでもなく、何故もろもろの少女たちの中から主人公が彼女たちを選抜するのか、その理由も不明だ。音楽のチョイスは確かに気が利いているが、イメージの世界と現実世界の結びつきは弱い、もしくはコジツケの感を覚える。ライター、火、ドラゴンなどまだいい方で、キッチンナイフ、ロボット、爆弾、電車の連想法ははっきり言って意味不明としか言いようが無い。まぁそんなところを突っ込むのは野暮テンなんだけれども。
 しかし何をおいても、オチは素晴らしい。『パンズ・ラビリンス』においても少女が自ら生み出したパンを一旦は否定することで、その想像力が更なる高みへと昇華されたように、ベイビードールは自らの想像力を突き破る。高橋洋ゴジラ映画において喝破したように(ゴジラを倒すには日本にもう一度、原爆を投下するしかない)、止めどなく膨張する美しい世界を完結させるのは、自己否定の一念である。この映画の隣人を踏まえた想像力こそ、如何なるガジェットよりも語り継がれるべきだろう。その閃きがまさに不意の一撃(原題 Sucker Punch )なのである。