『悪魔を見た』 報復の劇、その先

 韓国の近年のバイオレンス映画、そのエスカレーションを如実に顕す作品である。と言うか、暴力のエスカレーションそのものを題材とした作品であり、まるで戦争映画を観たかのような観後感を抱く。
 イ・ビョンホン演じる国家情報院捜査官が仕事にいそしんでいる間に、そのフィアンセはまんまとチェ・ミンシク演じる連続殺人鬼につけ狙われ、何度も何度も頭を殴打され、肌がやわらかいからすぐ済む、などと言われた挙げ句にばらばらに解体される。女は殺人者に「どうしても殺すのですか」と問うが、そんな問いは全く無視されてしまう。
 後日、河原で遊ぶ子供が袋にぽそりと入った人間の耳を発見する。もちろん名作『ブルーベルベット』のオマージュだが、耳の持ち主をめぐってサスペンスが始まるわけなどない。この映画『悪魔を見た』は獰猛なまでに先を急ぐ物語である。警察の捜索が大規模に展開され、生首が発見される。警官が「何か」を発見し、いぶかしげに見つめる。その時、水の流れで首がごろりと回転し、こちらを見つめ返す。このショットのおどろおどろしさは近来稀に見る残酷さを称えており、本当に素晴らしいの一言。私の大好きな『渇き』の特殊メイクスタッフが担当した凄まじい仕上がりである。夜の黒々とした水に反射する懐中電灯の明かり、生白い顔に張り付き、または縁取り、腐った藻のように水中を這う黒髪、生々しい傷口から覗く醒めるような赤い肉。目を覆うとはまさにこういうショットを言うのだ。
 観客と同様に警官たちも叫びに叫ぶ。事態を収拾せんと取り敢えず急ぎ急ぎ、騙し騙しにダンボール箱に首を収め、パトカーへ持って行こうとするが、警官は転び、首は再び地面をごろごろ転がる。新聞記者たちがフラッシュを絶え間なく焚く中、事態はどんどん最悪の方へ向かう。その場にはフィアンセのイ・ビョンホンも立ちすくむし、彼の上司であり娘の父であるチョン・グックァンも居合わせている。酷い、惨過ぎる。娘は殺され、ばらばらにされ、その首が転がる。この場面において音楽は異常なほどの盛り上がりを見せる。そしてクレーン撮影がそれを更に煽る。本作の物語はこの転がる首のように事態のその先その先へと、より凄惨な方へとぐいぐいと進む。
 ここでイが殺人者に憐憫と寛容とを示しては劇は停滞する。もちろんイは報復を固く誓う。ただ命を奪うだけでなく、苦痛を2倍にも3倍にもして返上すると誓う。女が果たして報復を望むかといった疑問は一切描かれない。逡巡はない。この激しい直情によって更なる悲劇が彼を迎えようとも、今のイにはそれを厭うような余裕は存在しない。イは容疑者を絞り込み、彼らを一人ずつリンチにかける。その過程において遂にチェ・ミンシクと対峙するに至るのだが、ここまでで映画はまだ半分の半分ほどしか時間を要していないはずだ。そう、『悪魔を見た』は報復の報復、その最果てへ(のみ)向かう映画である。通常の映画であれば、ゆっくりとフィアンセとイのあたたかな関係とその未来の可能性を観客に示すだろう。きっと彼らの未来に何の曇りもないことをじっくりと想像させ、それを失うことの恐怖をじわりじわりと盛り上げて行くはずだ。そして喪失の悔悟。絶望の底から復讐を決意するまでも丁寧さを忘れず。彼を襲う迷い。しかし悲嘆が彼を報復へと後押しする。大体、ここまでで映画の半分以上は時間を使うだろう。対照的なことに『悪魔を見た』では何もかもが早い。
 早さによって得た、余った時間をキム・ジウン監督はイの地獄巡りに存分に用いることが出来ている。殺人者、ゆすり、食人鬼、悪女が蠢く世界へイは否応無く引きずり込まれて行く。と言うよりむしろ乗り込んで行く。白眉とも言える殺人鬼対追いはぎの一戦、殺人鬼と食人鬼、さらに悪女対捜査官の3対1という、もはや異種格闘技戦か怪獣映画のような趣すら持つ泥沼の暴力の応酬の果てに一体何があるのか、否応にも期待は高まる。
 オチにはきっと賛否両論あるだろうと思う。これに関してはパンフレットの小倉紀蔵の非常に優れた論が助けになった。韓国映画は『オールドボーイ』『息もできない』『チェイサー』『グエムル』などの暴力または残酷映画においても常に家族を描いている。家族から逃げ続けた男が軽蔑の対象であるそれによって断罪される、という苦しみ。そして韓国ドラマの裏にあるこうした「悪い映画」たちを鶴屋南北の戯作に例えてみせる筆腕、興奮させてくれる論考だった。
 色々と粗が目立つ作りの一作だと思うが、あまりにも直線的なストーリーがそんな悩みも消し飛ばしてくれるはずだ。そしてその線がかつてなかったほど先へ延びて行くことのしつこさに疲れもし、嫌になりもし、げんなりもするだろうが、観て絶対に損はしない映画である。何故ならこの無限に延びる線は「なぜ諍いは存在するのか」という愚直な問いの長さを意味するからである。

追記
 冒頭にも書いたように、この映画は正しく戦争映画の様観を呈する。本作の長さとそれに反するストーリー展開の早さによって無辜の犠牲者を含めたその総数は通常の復讐映画の何倍にもなり、映画は黙示録的な次元へ到達する。人間の歴史の一側面を洩らさず描いた(キャッチコピーにもあるように)神話的な作品と言えるだろう。犠牲者の数に反比例するように浮かび上がるのはイの報復が全く効を奏しないという皮肉である。チェ・ミンシクはますます血潮に濡れて輝きを増す。彼はこのイが仕掛ける復讐劇を存分に満悦し、反撃を開始する。結果として婚約者の妹までもがミンシクの歯牙にかけられるという悲惨がイに訪れる。
 苦痛は報復感情の代替と成り得るのか。あくまでそれは肉体的反応であって、純粋な悔恨を人に与えないのではないか、という問いが最後に待っている。しかし、もうここまで劇を動転させておいてイに最早、劇を止めることは出来なくなってしまっているのだ。一体どこからこうなってしまったのかという、世界そのものが動き出したかのような錯覚を覚える。この悪魔的状況が本作の戦争映画的である所以である。
 イの身勝手な報復行為は確かに批判されるだろうが、憐憫の情に突き上げられた彼を笑うことは難しい。この情を完全に唾棄することはミンシクに同化することを意味するように見えるからだ。かくして諍いは存在する。もしイが婚約者の存在しない声に耳を傾けることがあれば、何を聞くだろう。そんなことは誰にも知り得ないのだが、もしかしたらそこにこの諍いを乗り越える道があったような気もしなくはない。森達也がよく言うように逡巡からもその道は拓けるだろう。さて本作のオープニングシーンに戻ってみよう。何処に辿り着くともない道がのびているばかりである。