止まらないと知ることでわたしたちは止まることができるのか

10 dial H-I-S-T-O-R-Y Johan Grimonprez

 日仏会館の特集上映「鉛の時代 映画のテロリズム」やその他の小さな上映会で上映されていた本作。世界のハイジャック映像をディスコミュージックで魅せる。そこにドン・デリーロの朗読が入る、という映画。「オリオンの星」、岡本公三や「ハイジャックの女王」、ライラ・カリドが「出演」している。特にPFLP旅客機同時ハイジャック事件の映像は若松孝二足立正生の『赤軍PFLP世界戦争宣言』、若松孝二の『実録連合赤軍 あさま山荘への道程』にて使用されているが、音楽が違うとここまで印象が違うかと思えば、新鮮。ポップソングと虐殺、暴力、テロリズムの調合は何でこうも相性がいいのか。
 本作はテロリズムを非難するメディア、視聴者こそがテロリズムを生み希望する土壌、主体であり、その暴力への羨望とその韜晦を照射する。ポップソングという暖かな音楽とテロリズムという冷徹な映像とが映画という形式を通じて重ね合わせられる時、見聞きしたいものと見聞きしたくないものとを同時に享受することの複雑で模糊とした怖気が観客を捉えて離さないだろう。

9 The Last Circus アレックス・デ・ラ・イグレシア気狂いピエロの決闘

 一人の踊り子女性を「スペイン」というクニそのものとして描き、二人のピエロはフランコ政権と人民戦線のグロテスクな戯画化である。彼らが女性を取り合う姿がスペイン現代史そのものという映画。『食人族』などの作品をコラージュするオープニング、ブラック過ぎるミゼットギャグ、そして誰のためにもならない狂気。人民戦線のテロに対する冷めた視点は、そのまま泣き虫ピエロの誰にも共有、共感され得ない狂気にも通底している。『スーパー!』を今年の最高作に押す方も多いが、私はこの点に関して、あの映画が欺瞞だったと思う。狂気はこの映画のように「誰のためにもならない」から狂気というのであって、あの映画のように「良き思い出」として描かれるべきものでは決してない。そして、一度でも狂気に陥った者がただリヴ・タイラーを手にするだけで正気に戻るはずもない。本作『The Last Circus』が素晴らしいのは、誰の希望にも沿わずに物語が進行する点。『悪魔のいけにえ』のような終局まで、欲望が留まることなく猛進する。何が欲望であったかさえ分からなくなるまで、物語は進行する。登場人物たちは訪れるはずの幸福が訪れないところにまで来て、更に訪れそうもない幸福を夢想するのだ。それは決して訪れない未来を常に欲望する「歴史」そのものと言えるだろう。そういう意味で本作は「歴史の恐ろしさ」を本当によく描写している。

8 サヴァイヴィングライフ 夢は第二の人生 ヤン・シュヴァンクマイエル

 シュヴァンクマイエルの最新作。はっきり「間違った」作品で、その間違いっぷりが潔くて素晴らしい。アニマと夢で逢瀬を重ねる前半から、後半の自己のトラウマ治療とでは全く話の筋が変わっているし、そのオチも普通に考えれば気持ち悪く、噴飯ものに思う方もいるだろうと思う。しかし共同制作者で妻のエヴァを喪ったシュヴァンクマイエルの純粋な表現として、ほんとうに美しい映画だと言える。
 シュヴァンクマイエルの映画はアニメーションパートと実写パートの両立によって出来ているのだが、今作は割とバランスの良い方だったと思う。『オテサーネク』、『ルナシー』などはテーマの興味深さが先行して、アニメーションの快楽は今ひとつ足りなかった。今回は『アリス』、『悦楽共犯者』くらいのバランスでアニメーションが挿入されるので、画面に退屈することはない。ただアップを多用するので、はっきり映画として破綻している。破綻っぷりが凄いと言えば、塚本晋也の『鉄男』もそうだが、何のソツもない作品よりも私はこっちを買う。映画としてもテーマとしても破綻しているが、「だから何だ」というばかりのオープニング、間違ってるとかどうこう言う馬鹿の説教も入らずに血の池に泳ぐラストに圧倒された。

7 MAD探偵 7人の容疑者 ジョニー・トー、ワイ・カーファイ

 ジョニー・トーとワイ・カーファイの「見者」シリーズの二作目と勝手に私が今考えたが、前作『マッスルモンク』も本作も「見える人」を主人公に置くことで映画自体がヘンなことになっている。本作の主人公は人の人格が見える。ある人が何人かの人間の集合体に見えるという意味不明な事態は、まさに映画でしか描写できない、言語化が極めて面倒くさい代物で、ホント映画向きの脚本と言える。しかも、この主人公には彼だけの脳内妻が見え、そのために実際の妻と離婚するなんて無茶苦茶な話で、ミュージカルシーンもあり、いきなり人におしっこかけたり、いきなり相棒の刑事が少年に見えたり、マジメに観れば観るほど混乱する。よくもまぁこんな意味不明な脚本を現場で混乱せずにやれるもんだなぁと香港映画の懐の深さを思う。
 タイトルの「7人の容疑者」というのは主人公コンビが追う一人の容疑者が「見者」たる主人公には七人に見えることに由来する。一人が七人に見えるというのも言葉で読むと無茶だが、これをちゃんと編集で映像化出来ているところが素晴らしい。もはや誰の視点で話が進んでいるのか、朦朧としてくるが、ちゃんと主観を使い分ける巧みさに舌を巻いた。

6 スプライス ヴィンチェンゾ・ナタリ

 これも断じて「間違った」映画。ヴィンチェンゾ・ナタリ、待望の新作は、ずっと撮る撮ると言っていた「フランケンシュタイン」もの。科学者が案の定、一線を越えてしまい、生まれるはずのないモノが生まれてしまう。ソレに対する感情の動揺から、更なる「間違い」を犯していくという、もう芋づる式に間違っていく映画で、倫理的な過誤に満ち満ちている。白眉はやはりエイドリアン・ブロディのふらっとなびいてしまうシーンとクライマックスの「おまえのなかにいる」というダブルミーニングの凄まじさ。この科学者カップルが間違おうと思って間違うのでなく、何となく間違っていく、この感じがなかなかいい。実際のところ、2011年の日常によく見るのは狂気による逸脱などでなく、無心による逸脱であり、等閑による逸脱であるからである。