むなしさを知っても幾度も知らなくてはならないと知らされる

5 孫文の義士団 テディ・チャン

 孫文による辛亥革命から百年ということで香港、中国のスタッフから成る一大絵巻の本作が制作された。孫文が香港に来るということで西太后が暗殺部隊を送る。これを迎え撃つのが新聞社が結成する有志。有志というのはレジスタンスの娘、無学な一般人、零落した武人、かつての少林寺の僧侶、軍賊、新聞社社長の息子という人々である。本作が素晴らしいのは昨今のアメリカ映画、日本映画にありがちな面倒な自意識を善悪の価値観に介入させていないこと、描かないことの強さである。バットマンが善悪についてナルシスティックに悩み抜くような、織田裕二扮する刑事が偽善的な人命尊重を訴えるような、白々しさは本作には全くない要素だ。孫文はどこまでも善人であり、西太后はどこまでも悪人なのである。つまり、革命は善、反革命は悪であるという徹底した二項対立が描かれている。二項対立の超克などとよく言われることだが、二項が描かれなければ、これを超えることなど存在しない。善人も悪人も存在しない世界には善悪を超えるものも、また存在し得ない。本作は善悪に関する強固な自意識を美しくも、かなぐり捨てて、善悪を超えるものを見事に描き切っている。それは、本作がいかにも孫文がどれほど素晴らしい人かというプロパガンダのように思えて、実は孫文が「歴史」ではなく「稗史」を重んじる人として、この映画で称揚されることから明らかである。稗史、正史にはよもや刻まれることのない人々の名前を本作はテロップを用いて作品に刻み込んでいく。それは深作欣二が、若松孝二が『仁義なき戦い』で、『実録連合赤軍』で追想のもとに用いた手法であり、歴史と現在との連続性、服喪性を強調するものだ。私たちにつながる、連なるもの、その絆を写し取る本作はその点において、まことに感動的である。
 
4 超・悪人 白石晃士

 白石は『ノロイ』、『オカルト』といった疑似ドキュメンタリー作品で頭角を表し、『バチアタリ暴力人間』で一皮むけたくらいに思っていたが、本作は現時点での彼の最高傑作であり、日本の疑似ドキュメンタリーホラーの新しい領域を切り開いた快作だと言える。なぜカメラを持つのか、撮影するのか、という映画の成立に関する点に関して疑似ドキュメンタリーはどこまでもエクスキューズを必要とする。更に、そのエクスキューズは出来る限り意識されないものとしてなくてはならない。今作はシーン数をどこまでも切り詰めて、撮影者の変更を出来る限り意識させないという方法で見事にこのエクスキューズの障壁を踏破している。撮影者が変わるのは前半の犯罪投稿ビデオと後半の犯罪実況の間に一度ある限り、しかも前半は人に見せるための変質者の撮影、後半は撮ることを強制されるということで疑似ドキュメンタリーにつきものの不自然さを一切感じさせないつくりになっており、この点がまず何をもっても素晴らしい。テーマ、内容も今までピンク映画、バイオレンス映画、ホラー映画のどれにもなかった悪役を描いたこと、そして起こり得ないことが起こるという脚本と素晴らしい演技によって、本当に今まで観たことのない映画になっている。俳優の演技がみな素晴らしく、監督の歪んだ自意識が割となりを潜めているバランスもいい。ベルギーは『ありふれた事件』の完全な踏襲が日本でようやく生まれたことを喜びたい。
 2011年は園子温の快進撃をもって語られる一年でもあったが、園が90年代に拘泥するのに対して白石はこの映画で全く新しい時代の悪を描いている。悪の卑近さを徹底して描いているのは『冷たい熱帯魚』ではなく、本作であると断言する。

3 悪魔を見た 金知雲(キム・ジウン

 この映画については以前、ここで書いたこともあるので余り繰り返すこともない。凡百の映画が「いかにして戦争は始まり、終わるのか」を描くのに対して、本作は「なぜ戦争は終わらないのか」という一点を描いている。物語が作者の手を離れて、登場人物たちが躍動し始め、もはや何が目的であったか判じることの出来ない地点まで突き進む。もうテーマだとか胡散臭い説教だとか、どうでもいい、絵解きや審判を全く考慮できないところまで登場人物たちといきたいという私の願いにこれほど応えてくれて、打ちのめしてくれた作品に出会えたことがただ嬉しい。イ・ビョンホンの審判の虚しさこそ、今の私が映画に求めるものだ。

2 ザ・タウン ベン・アフレック

 観た後、ただちに本作が2011年の上半期最高作だと思った当時の感情を反映して二位とした。何よりカーアクションが素晴らしい。この現代で今なお銀行強盗なんてアナクロなものを題材にできるベン・アフレックとボストンという街に驚かされたし、人間でなく風景を、情景を描いている点にも好感を持った。登場人物の内面がどうなっているかグダグダと説明する映画、絵解きと審判の映画に比べて、この映画の悪党たちは何のためらいもなく強盗をし、警官を殺めて、縦容と死んでいく。ジェレミー・レナーなど、まことにあっさりと何のてらいもなく道に倒れる。その一点もしおらしさのない潔さに、心からの讃歎を。
 この作品はピート・ポスルスウェイトの遺作でもある。あんな悪役が遺作だなんて、何とまぁ恐ろしい俳優だろうか。その意味でも最高の作品。

1 密告・者 林超賢(ダンテ・ラム

 さて一位。一応、順位をつけるとこういうことになるのだが、はっきり言って映画に順位など点けてもあくまで暫定的なものでしかないというのはご存知の通り。しかし、そんなこと言っても締まらないので、今年の一本はベスト香港アクションということで本作を選定した。カーアクションあり、追跡サスペンスあり、鉈のバイオレンスありの本作の極めつけは、ポップソングありということだ。日頃、耳にすることの多いコマーシャルソングの向こうに絶望も希望も超えた、流れとしか言いようのない何かが顕現する。
 無数の「稗史」に消えた人々の存在が明示されるオープニングクレジットで幕が上がり、冒頭ですでに発狂者が出ることから、これから始まるのが破滅をあらかじめ決められた物語だということがビシビシと伝わってくる、この感覚。善悪双方に染まることを許されない「密告者」の引き裂かれた立ち位置。いきなりメロドラマ化する一人ダンスシーンと全く破綻したニック・チョンの人格と過去の記憶。『アジョシ』にも観られる、いきなり突っ込みの轢死。悲惨が悲惨を呼ぶ陰惨なノワールで、『悪魔を見た』よりも短いのだから度肝を抜かれる。しかもポップソングつき。ポップソングに歌われる卑近な悲しみ、喜び、怒りや憎しみの意味を本当にひとが理解するとすれば、まさにこの映画のラストのような意味においてだろう。本当の言葉の意味を知ってしまったら。
 リウ・カイチーの泣き崩れる姿が頭から離れない。この場面は『監督失格』の例の場面をフィクションでもって描き切った場面であり、『ヒアアフター』、『恋の罪』、『孫文の義士団』において描かれた「言葉」とどう関係するかについての、2011年の日本にとって最も真摯な解答であったと思う。