言葉 3. 4.

 内田のブログはねちっこくて、かったるい時はかったるいが冴えている時の、妖しいまでの駄目押しはすごいと思う。最近の中では、この忠臣蔵評と、やはり最稼働に関する文章は一読に値すると思ったので、私の備忘のために、これを挙げておくことにした。殊に最稼働についての論は「経済活動」から逃げ続ける私にとって、悪い意味でも励ましとなった。

http://blog.tatsuru.com/2012/05/02_1017.php

 『忠臣蔵』の物語には同時代の『東海道四谷怪談』をはじめとして、無数のヴァリエーションが存在するからである。もし、無数のヴァリエーションを通じて、「決して変わらない要素」があるとすれば、それこそが『忠臣蔵』の物語的エッセンス、必須の説話的原型だということになる。
 すべての『忠臣蔵』ヴァリエーションが一つの例外もなく共通して採択している物語要素があれば、私たちはそれをこそ忠臣蔵的な物語の本質と名指すべきであろう。
 さて、驚くべきことだが、そのような物語要素は実は一つしかないのである。
 数知れない『忠臣蔵』ヴァリエーションの中には「松の廊下」の場面をカットしているものがあり、「赤穂城明け渡し」をカットしているものがあり、極端な場合には「討ち入り」の場面をカットしているものさえある。だが、絶対にカットされない場面がある。
それは「大石内蔵助/大星由良之助の京都の茶屋での遊興の場面」である。そこから私たちはこのエピソードこそ、それ抜きでは『忠臣蔵』という物語が成立しなくなるぎりぎりただ一つの物語要素だと推論できるのである。
 あらゆる『忠臣蔵』ヴァリエーションを通じて、大石内蔵助を演じる役者には絶対に譲れない役作り条件が課されている。
それは「何を考えているのか、わからない男」であることである。
忠臣蔵』というのは「不安」のドラマなのである。大石という、仇討ちプロジェクトの総指揮者であり、資源と情報を独占して、浪士たちの生殺与奪の権利をにぎっている人物が何を考えているのか、わからない。
 「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」とき日本人は終わりのない不安のうちにさまざまな解釈を試みる。そのときに、日本人の知性的・身体的なセンサーの感度は最大化し、想像力はその限界まで突き進む。中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するように日本人の集団が力動的に構成されている。


http://blog.tatsuru.com/2012/06/11_1431.php
 

3/11原発事故以来の日本であらわになったある種の思考傾向が首相にも市長にもあらわになっている。
 それは「目の前のリスク」は長期的なリスクよりも優先されるべきだということである。
 グローバリストが「目の前のリスク」は「原発事故の危険性」よりも重いと判断するのは当然のことである。
 その判断は、彼らがビジネスというゲームをしている限りは合理的である。
 だが、私たちは今ビジネスの話をしているのではない。
 国の統治の話をしているのである。
 国というのは「金儲け」をするためにあるのではない。
 とにかく石にかじりついても、国土を保全し、ひとりでも多くの国民を「食わせる」ために存在する。
 かりにその国民たちの恐怖が「確率論的には無視できるほどのリスク」についての「杞憂」であったとしても、現に福島原発が「確率論的には無視できるほどのリスク」が現に起こりうるということを示してしまった以上、国民が「天文学的確率でしか起きないはずの事故」を恐れる感情を軽視することはできないはずである。
 「杞憂」というのは、杞の国の人が「いつ天地が崩れるか」を恐れて、取り越し苦労をした故事に基づく。
 杞人の上についに天地は崩れなかったが、福島の原発は一年前にメルトダウンを起こした。
 だから、原発の危険性を「杞憂」と同列に扱うことはもうできない。

 「原発事故から国民生活を守る」という「国として果たさなければならない最大の責務」については、これを暫時放棄させて頂く、と。
 そう正直に言ってくれたらよかったのである。
 そう言ってくれたら、私は彼の「祈り」にともに加わったかも知れない。
 だが、彼は正直に苦境を語るという方法をとらずに、詭弁を弄して、国民を欺こうとした。
 政治家が不実な人間であることを悲しむほど私はもうナイーブではない。
 だが、総理大臣が自国民を「詭弁を以て欺く」べき相手、つまり潜在的な「敵」とみなしたことには心が痛むのである。

 昨年の夏くらい、『スーパー8』を観たくらいから疑問だったこと、経済についてを横においてアホをアホと言ってはいけないのかが書かれていたけども、だからと言って読んでも変わらずモヤモヤは残る。つまるところアホ!などと言うこと自体が良くないのだから、当たり前とも思う。

 一緒に『スーパー8』を観に行ったかつての友人は私に「株価のことを考えれば、ああいうアホは許認できる」と語ったけれども、正直に言って私にはショックだった。彼とは『スターウォーズ』の感動を分かち合い、ダースベイダーの非業に共に言葉を失ったのだった。その同好の士から、あまりに「現実的」な「大人」の「成長した」物語を聞かされて、『こころ』のKよろしく、成長のない人間は馬鹿だと宣告されたような気がしたくらいだ。私の動揺は、この「経済成長」という「お仕事」の話に対する、有効な反論が思いつかなかったほどで、だから別れ際にどんなアホな映画でもいい、たぶん真剣に観ればいいんだ、ルーキーズだろうが恋空だろうが、どんなアホな映画だろうと、ちゃんと観れば、ああいうのを観た人間が人をアホ呼ばわりして殴ったりしない世界がきっと到来するだろうというアホな楽観論をぶちまけて、おれがああいう映画が嫌いなのは基本的にあの手の映画が好きなやつが人を殴って、人をアホ呼ばわりするからだ、などと歎いてみせたのだった。
 しかし、『スターウォーズ』や『ゴジラ』を愛する人間が、こんなアホを許認することが果たして本当に可能だろうか?
 それが可能であることはミルグラムの本にねちねちと書いてあるので、今は別にもう彼のことを恨んだりしていないし、むしろもうこのまま袂を分かってもそんなものでもいいとさえ、これを書きながら思えてきた。
 今回のことではっきりしたのはあくまで私は『スターウォーズ』や『指輪物語』、そして『ゴジラ』や『ウルトラマン』の方がアホなことよりも好きだし、優先したいということ。そして、次また何かアホなことがあるか分からないが、このままぶれずにいたいということ。それだって、拷問されて、同調圧力を仕掛けられれば、今にでもへつらってしまいそうな脆弱さだ。
 だからと言って、当事者でもない私がアホを許認する必要などあるはずがないじゃないか?
 ふんぞり返るわけではないが、当事者でもないがアホを許すというのは自分の怯えや恐怖を意識することが耐えられなくて避けているだけなのじゃないかという気もする。悪いけど、私にはそういうゆとりはない。面白い映画とか本のことには夢中になれるし、自分のまわりのことには夢中になれるけど、何処とも誰とも知れない冷房つけないと死ぬという人の切迫感は理解できない。
 馬鹿なこと、幼稚で成長のないことと思われるだろうし、笑われるだろうけど、確かに。頭がどうかしている。だって普通ではないことが起きているのだから。これは人を罵倒してもいい、という言い訳で言うのではない。だけど、もし普通でないことが常態化するなら、きっとどんなアホなことも「よく止まる中央線」とか「よく窓ガラスにカラスがぶつかって死ぬ」とかいう、限りなく些末なアホへと私たち自身がどっちにしても矮小化するのだから。少なくとも私はそのように出来ている。私に『密告・者』のリウ・カイチーのような真摯さが欠けていることは、この文章からもよく分かる。たぶん真摯な人は「あのような状況」では死ぬか、さもなくば狂ってしまうだろう。たまにそういう人間がいることは知っている「つもり」ではあるし、たまたまに私がその役を割り振られなかっただけなのかも知れないとも居丈高にも思う。真摯であるか、そうでないかを決めるのは、あの映画で描かれていたように、その個人でなくて、どこまでも状況なのかも知れないが、再び書くが、だからと言って避けてもいいわけではない。しかし避けずとも24時間営業のコンビニ以上の利便によってアホを常態化させるのは私そのものなのだと思うから、今だけ書くことができるアホな文章をたらたら書いておくのだ。
 はっきり言って、寛容を装った等閑は不寛容に勝る罪悪である。そのような無感動が如何に今まで悲劇をもたらしてきただろう。あえて記すまでもないが、水俣からパレスチナまでを覆う厚い憎悪のヴェールは、この等閑によってのみ成立し得るのだ。今また、何億度目かの過ちに立ち会う私たちが、これを等閑としていくことは必定なのだから、なおもって、せめて寛容を装うことこそ慎まなくてはならないと思う。不寛容でなく、非寛容を内に設えなくてはならない。そして、その非寛容の火を消さないようにしなくてはならないと思うのだ。
 是非とも本流に、本義に常に立ち返りたいし、上のアホとはいつかまた一緒に酒でも飲みたいと思うのである。