『ハードコアの夜』、愛を求める

 ポール・シュレイダー監督作。
 『キャットピープル』の音楽が『イングロリアス・バスターズ』で使われたり、と再評価につながればいいな、と思う監督である。
失踪した娘を探すうちにハードコアポルノの裏の世界に足を踏み入れていく父。この手のテーマは『8mm』でも繰り返されてたし、『96時間』だとか『告発のとき』を想起した映画ファンもいるようで、そこはなるほどと思う。
 何よりも映画の中の映画、しかもそれが観る人にとって耐えられないような「こわい映像」であるということで思い出すのは黒沢清の『修羅の極道 蛇の道』であろう。娘をスナッフフィルムで殺された香川照之哀川翔の手を借りて復讐に手をそめていく。脚本の高橋洋は90年代において、この映像のなかの映像というテーマに極めて自覚的だった。アメリカ映画ではウェス・クレイヴンがそれに相当する。
 90年代のメタ的な映画群はそれまでの王道をパロディとして取り込みながら、映画の仕掛けを意図的にばらしていくことで成立していた。その地点から観ると79年の本作はまだ牧歌的に見えるが、目のつけどころは鋭い。
 この作品のレヴューを読んでいて、『オーメン』や『エクソシスト』は保守的な親世代からみたヒッピー世代の反抗を象徴的に描いているのだ、というようなことを書いている人がいて面白かった。ある面ではゾンビ映画などもそうであろう。そう考えるとこの映画の嘘みたいなラストはどうしても抜け切れない正直な、年齢というへだたりを描いていてかなり恣意的だ。娘と親父がこんなに簡単に分かり合ってはあまりに「現実味」(しかしそう断定するような現実に現実味は無い)がないが、このラストの大破綻になだれ込むまでのサスペンスは観ていてほんとにどきどきする。
 主人公がけっきょくニキという娘一人も救えない無責任な親ばかでしかないと明示される場面に、親世代への批判を読むか、もしくはもっと絶対的な「人は人を救えない」というような普遍性を見るかでこの映画の評価は割れるだろう。 もし後者と読むならば娘をも本質的には救済など出来ていないわけで、あなたの読解によってこの作品の良心は担保される。もし単なる躾けの批判として読むならば、自己批判というまやかしに覆われた自己憐憫にわたしもあなたも溺れる。
 ヒッピー世代を「親の愛をもとめての反抗」と割り切ってしまえるところがこの映画の分光器である。反抗程度でスナッフなんて出来る筈はない、いや出来ても構わないし、おそらく関係ないだろうが、 いや出来る、と少し考えてみることが求められる結末だ。
 主演のジョージ・スコットが素晴らしい。ピーター・ボイルのうさんくさい探偵もいいし、シーズン・ヒューブリーの薄幸な切なさも素晴らしい助演だと思う。彼女の役と主人公の一本通行的なコミュニケーションのすれ違いっぷりはギャグのようでもあり、保守性の浅薄さがよく滲んでいる場面だ。
 少々肩透かしもくらうが、この映画には凄絶な瞬間がたしかに存在している。